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うるばん ヨーゼフ・ウルバン
1890年から1893年、ウィーン美術アカデミーでカール・フォン・ハーゼナウアーに師事。1897年、皇帝賞が与えられる。1900年、義理の兄弟であるハインリッヒ・レフラーとハーゲンブントを結成、1906年から1908年まで、会長を務める。本の挿絵とカレンダーを制作、一部はハインリッヒ・レフラーとも共同制作。1898年出版の「ローランツスクナッペ」は二人の共作。1907年、グリム童話「クリンク・クランク・グローリア」、1910年、ルードヴィッヒ・フルダの詩入りカレンダー。1904年、セント・ルイスの万国博覧会に参加。1898年、「ハーゲンブント・ハウス」の改築や建築。皇帝の記念展覧会のためのボスニア州政府の建築物、忠誠のパレードのための祝祭会場のデザイン。1911年、米国へ移住。1913年から1933年、メトロポリタン歌劇場の舞台装置の主任、ニューヨークの「デコラティブ・シニック・スタジオ」の監督。1922年、ニューヨークにウィーン工房の支社を設立している。
カテゴリー:作家
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ドクメンタとは?【 美術用語 】 1955年以来、西ドイツのカッセル市で、原則として4年ごとに催されてきた進歩的傾向の国際美術展の名前。第1回展は、カッセル・アカデミーのボーデ教授の提唱で、第二次大戦終了までナチスによって進歩的・前衛的芸術が「退廃」の烙印を押されて国際舞台から著しく立ち遅れてしまっていたドイツの芸術に、再び新しい息吹きを取り戻す目的で組織された。以降、ドイツの国民に世界の現代美術の動向を紹介するのを根本とし、多くの国際美術展のような授賞制度を持たずに、毎回テーマを決め、それに基いて委員会が美術家の人選を行うという方法を採っている。第2回展にはアメリカ部門が設けられ、ニューヨーク派の成果が紹介され、第4回展では、出品作家の3分の1がアメリカ人でその作品の多くが巨大なサイズのものという、アメリカの色面抽象絵画、ポップ・アート、ミニマル・アートが支配的なもので、ドクメンタの歴史にひとつの頂点を画したものであった。画商界の動向への追随など批判も多いが、現行の国際美術展では最も規模の大きいものである。 画面右にこのキーワードの再検索結果が表示されています。そちらもご覧ください。 |
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