![]() |
|||||||||||||||||||||||||||||||
データベースを使った楽しいサービスです。文中のキーワードをクリックすると、解説文があらわれ、同時に検索結果が表示されます。ぐるぐるキーワードをたどって遊んでみてください。 | |||||||||||||||||||||||||||||||
![]() ![]()
|
はやし まさあき![]() 林正明 ![]()
1931年大阪府に生まれる。昭和25年大阪府立住吉高等学校を卒業。昭和29年京都市立美術大学日本画科を卒業し、小野竹喬に師事。日展、日春展、関西展、京展、有秋展、大美会展などに出品し、関展賞佳作、大美会展毎日賞、大美会展大阪市長賞などを受賞。1997年には、笹岡市立竹喬美術館で「林正明展」を開催している。昭和44年日本美術家連盟会員となる。翌年インド美術研修旅行に参加。インド美術研修旅行には昭和49年にも参加。昭和48年には北欧美術研修旅行にも参加し、新境地を開く。
![]()
カテゴリー:作家
![]() ![]() ![]() 竹内栖鳳とは?【 作家名 】 ![]() 京都に生まれる。本名恒吉。はじめ四条派の土田英林につくが、17歳のとき幸野楳嶺に入門。棲鳳の号を受ける。楳嶺やフェノロサの示唆で、四条派の伝統だけでなく、幅の広い古画を研究した。若くして、内国絵画共進会などで入選し、受賞。明治25年(1892)の第21回京都博覧会での受賞作〈猫児負喧〉は、折衷的表現であったため「鵺派」と批判されたが、その後もさまざまな展覧会で受賞を重ねた。明治28年(1895)京都市立美術工芸学校教諭。明治33年(1900)には渡欧し、帰国の後、号を栖鳳と改めた。明治40年(1907)に文展が開設されると、毎回審査員をつとめ、京都市立絵画専門学校教諭、同教授、帝室技芸員、帝国美術院会員、帝国芸術院会員などを歴任。長く京都画壇の指導的存在であった。画塾竹杖会からは、多くの逸材を輩出した。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年) ![]() ![]() ![]() |
||||||||||||||||||||||||||||||
![]() |