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かいりくせんとうず 海陸戦斗図
<陸海戦闘図>は、日清戦争従軍時の取材を基にしたものである。米僊は、息子の金僊とともに、木版による10冊からなる『日清戦闘画報』を出版したが、本図では、それよりも表現として洗練させながら双幅の画面に仕上げている。しかし、軽やかな筆致や彩色のなかに、『画報』に通じるジャーナリスティックな視線や、日本軍の勝利を無批判に美化する姿勢が引き継がれ表されている。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年)
カテゴリー:作品
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久保田米僊とは?【 作家名 】 京都に生まれる。名は満寛、幼名は米吉。鈴木百年に師事。明治維新後、油彩画の制作を試みて、内国勧業博覧会などで発表している。京都における画学校設立の運動に加わり、明治13年(1880)京都府画学校が開設されると出仕となった。明治15年(1882)第一回内国絵画共進会で銅印を受け、第二回展では最高賞である銀賞を受賞。日本美術家協会展やパリ万国博覧会などにも出品し受賞を重ねた。日本画家としては、渡邊省亭に次いで早いフランス遊学をはたす。明治24年(1891)上京し「国民新聞」に入社。シカゴ万国博覧会の特派員、日清戦争における同社の従軍記者となった。その後、日本美術協会第一回共進会で一等褒状を得、日本青年絵画協会や内国勧業博覧会では審査員をつとめた。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年) 画面右にこのキーワードの再検索結果が表示されています。そちらもご覧ください。 |
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