ぐるぐるアートワード
データベースを使った楽しいサービスです。文中のキーワードをクリックすると、解説文があらわれ、同時に検索結果が表示されます。ぐるぐるキーワードをたどって遊んでみてください。
ぐるぐるもくじ


〈最後の勝負は続く〉〈ネガティヴ・プレイ〉



採桑図



斎藤実盛染鬚図



佐伯定胤和上像



堺の相生橋



さかだちカナエちゃん



作業用椅子



作品



作品集第7巻「Bok3bとBok3d」



作品集第9巻「ステューピドグラム」



作品集第10巻「デイリー・ミラー」



作品集第11巻「スノウ」



作品集第1巻「2冊の絵本」



叫び



サゴ・ケーキ用の編んだバッグ(ナウグムビ)



サゴのショー・ケース



砂上の花



『サド侯爵の作品』 ギヨーム・アポリネール編



サノワの赤いカフェ



サノワの通り


<前 (1/17ページ) 次>

●もくじのさくいん

    

    

記事カテゴリ

 すべて

 作家(1701)

 作品(1851)

 美術用語(163)

 その他(1)


おちあい ろうふう

落合朗風

1896年東京府に生まれる。本名平次郎。4歳で母を亡くし、その後キリスト教信者の父の手で育てられる。1912年(大正元)、明治商業学校を卒業後、働きながら川端画学校に通学。1914年、18歳のとき画家を志し、遠緑にあたる京都の画家小村大雲に師事する。翌年、巽画会展、明治絵画展に出品、1916年には文展に初入選。しかし、1919年院展に転じ、第6回院展に〈エバ〉を出品、出世作となる。以後続けて1921年まで院展に出品するが、第8回展の会期中、朝井観波とともに院展を脱退、京都に移る。1924年、父の故郷島根県松江での個展には失敗するが、同年の第5回帝展に出品し、以後帝展に出品を続け、東京にもどる。1931年(昭和6)帝展と訣別し、青龍展に出品。青龍賞を受け社友となるが、34年川口春波とともに青龍社も脱退、新たに明朗美術連盟を創立する。閉鎖的な既成日本画壇に対抗し、自由な精神と新鮮な感覚で制作をつづけたが、1937年、急性肋膜炎により41歳で早逝した。(「大正の新しき波 日本画1910−20年代」図録 1991年)


カテゴリー:作家
  いまクリックまたは、検索したキーワードの解説

ブリュッケとは?【 美術用語 】

1905年、ドレスデンでキルヒナーシュミット=ロットルフ、エーリッヒ・ヘッケルらの表現主義的傾向の若いドイツ人画家たちによって創設された団体。1906年にはノルデ、ペヒシュタインが参加している。1910年には、ノルデの作品がヅェツェッシォーンに出品拒否をされたのをきっかけに、自由出品制の展覧会のための新しいグループを作り、「新分離派」と名のりベルリンに移動した。1912年には「青騎士」展に参加したりするが、1913年キルヒナーの書いた文章から意見の相違が生じ、分裂・解散した。「橋」を意味するグループ名は、彼らの作品が未来の芸術への架け橋になってほしいという願いからつけられたものであるが、その信条、目標は明確にされず、既成の古い力に対する反抗に重点がおかれ、ドイツにおける表現主義運動をつくった。このグループの仕事の中では、版画、とくに木版画の復興が評価され、二次元的平面性と、白と黒の対比による力づよい精神表現の可能性を追求し、高めた意義は大きいものがあった。

  画面右にこのキーワードの再検索結果が表示されています。そちらもご覧ください。

キーワード検索




けんさくけっか

キーワード

ブリュッケ

キーワードを含む記事
13件見つかりました。

  青騎士

  エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー

  黄色の上着を着て

  カール・シュミット=ロットルフ

  生の影

  デア・シュトゥルム

  エミール・ノルデ

  表現主義

  ブリュッケ

  分離派

  エーリヒ・ヘッケル

  オットー・ミュラー

  モーリッツブルクで水浴する女性たち


<前   次>

徳島県立近代美術館2006