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やました きくじ 山下菊二
1919年徳島県に生まれる。1986年没する。1937年香川県立高松工芸学校鋳金科を卒業する。1938年上京して福沢絵画研究所に学び、ダリ、エルンストなどシュルレアリストの影響をうける。1939年から42年にかけて台湾、中国で兵役に服す。1940年、第1回美術文化協会展に入選、44年度第5回美術文化協会展で奨励賞を受賞する。この年から終戦をはさんで1949年まで東宝映画教育映画部に勤務、その間45年再度召集をうけ、この戦争体験から戦後は政治的関心を深める。1947年に日本美術会、前衛美術会の結成に参加、以降、前衛美術会、ニッポン展、日本アンデパンダン展、平和美術展などに出品する。1974年には从(ひとひと)会を結成し、以降、同展にも作品を発表する。1950年代はシュール風の怪奇性と表現主義的な要素が混じり、戦争体験や因襲的封建的な農山村の土俗的イメージを生々しく描き出すが、60年ごろからは天皇制を主題とする作品に取り組む。(「ピカソと日本」図録 1990年)
カテゴリー:作家
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マティスとは?【 作家名 】 1869年フランスに生まれる。1954年没する。はじめは法律を学ぶが、まもなく画家を志す。22歳からパリでギュスターヴ・モローの指導を受け始める。この頃、ルオー、マルケ、ピサロらと知り合う。また、ルーヴル美術館で名作の模写を多数行う。1903年のサロン・ドトンヌ設立に参加する。1905年の同展では、ドラン、ヴラマンク、ルオーらと共に、その大胆な色彩と激しい筆致が注目を集め、半ば嘲笑を込めて「フォーヴ」と呼ばれた。1909年にロシアのシチューキン家のために大作〈ダンス〉を、また32年にはアメリカのバーンズ財団のために壁画〈ダンス〉を制作するなど、各地で活躍する。また1921年からは、パリとニースを往復する生活を送る。1940年のパリ陥落の後、ブラジルの渡航を試みるものの南仏に留まる。戦後も、切り絵、挿絵本、タピスリーなど幅広い活動を続け、特に南仏ヴァンスの礼拝堂の装飾は、彼の才能の集大成と言われる。20世紀美術においてピカソと匹敵する成果を残した一人といえるだろう。 画面右にこのキーワードの再検索結果が表示されています。そちらもご覧ください。 |
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