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りんどなー リチャード・リンドナー
1901年ドイツに生まれる。1978年没する。ドイツが財政的、政治的に緊迫した20年代、オットー・ディックスや、マックス・ベックマンらの荒々しい表現に触れながら、美術や音楽を学ぶ。ヒットラーが権力を握った1933年、パリに渡り、戦争の緊迫した状況の中で41年にはアメリカに渡る。この間、雑誌のイラストレーションや、グラフィックデザインをやりながら、他方では自分のために絵を描いていた。1950年代からイラストの仕事をやめて本格的に絵画活動を始める。攻撃的で抑圧された欲望を感じさせる女性像を描く。1954年には53歳にして初めて個展を開く。エール大学で教えたりもして名前は知られていたが、1960年代にポップ・アートが出現して初めて広く賞讃されるようになった。しかし彼自身は、ポップ・アートが自分の目的であったとは考えていなかった。彼の作品は、ヨーロッパ的な、そして彼の個人的な要素から、本質的に成立している。1978年、ニューヨーク近代美術館で回顧展。(「なぜか気になる人間像 徳島県立近代美術館所蔵名品展」図録(埼玉県立近代美術館)1992年)
カテゴリー:作家
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ネオ・ダダとは?【 美術用語 】 1950年代の末、ニューヨークにおいて、ラウシェンバーグとジャスパー・ジョーンズが、あいついで個展を開いた。当時の美術の世界は、抽象表現主義が全盛をきわめていたが、その中で彼らは、日常の具体的、卑俗的な、すぐそれと知れるようなものを画面に登場させ、大胆な画風を示した。ラウシェンバーグは、絵画に布や写真、印刷物などを加えて、雑多なイメージを画面に集めてくるコンバイン・ペインティングを、ジョーンズは国旗や標的などを画面にクローズアップすることで、反芸術の新しい表現スタイルをうちだした。これらの創作活動を、芸術に対する挑戦的な姿勢とみなし、「ダダの再来」という意味でジャーナリストが名付けたものが「ネオ・ダダ」である。日本も1960年の読売アンデパンダン展に、ネオ・ダダ・オルガナイザーズというグループが出品するなど、影響を受けている。ネオ・ダダは抽象表現主義につづき、後のポップ・アートの出現をまつことになる。 画面右にこのキーワードの再検索結果が表示されています。そちらもご覧ください。 |
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