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くりむと グスタフ・クリムト
1862年ウィーンに生まれる。1876年に奨学金を得てオーストリア芸術産業美術館付属の工芸学校に入学、7年間同校に学ぶ。1883年、弟エルンスト、同窓のF.マッチュと共に美術家協会を設立し、ブルク劇場やウィーン美術史美術館など多くの装飾画を手掛ける。この時期の作品はいまだアカデミックな画風で描かれており、ブルク劇場のフレスコ画の制作によって勲章を授けられたが、1897年にウィーン分離派を結成し、その初代会長となると、アール・ヌーヴォー様式を大幅に取り入れた独自の様式を成熟させていった。1903年にはウィーン工房の設立に協力し、翌年、ブリュッセルのストックレー邸の食堂のためにモザイクのフリーズを制作し始める。この間、ウィーン大学の壁画やマックス・クリンガー展のための《ベートーヴェン・フリーズ》が賛否の渦を巻き起こす。1905年分離派を脱退し、翌年オーストリア美術家連盟を結成、1908年の「クンストシャウ」に出品した《接吻》が国家買上げとなる。第9回ヴェネツィア・ビエンナーレ(1910年)で「クリムトの部屋」が設けられたり、1911年のローマ国際美術展で最優秀賞を獲得したりするなど、ヨーロッパ美術界で重きをなしていった。1917年、ウィーンとミュンヒェンの造形芸術アカデミーがクリムトを名誉会員に迎る。1918年ウィーンで歿。(「ホフマンとウィーン工房展」図録 1996年)
カテゴリー:作家
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マルセル・デュシャンとは?【 作家名 】 1887年フランスに生まれる。1968年没する。ジャック・ヴィヨンとレイモンド・デュシャン・ヴィヨンは兄にあたる。1904年から5年にかけてパリのアカデミー・ジュリアンで学ぶ。兵役を径て1906年パリへ戻る。フォーヴィスムや未来派、キュビスムなどの新しい潮流に触れる。1913年ニューヨークで開かれた「アーモリー・ショー」に〈階段を降りる裸婦〉を出品する。キュビスムと未来派を結合したようなこの作品は話題を呼ぶ。第1次世界大戦を機に1914年ニューヨークに渡り、ピカビア、マン・レイらと共にニューヨーク・ダダの中心として活動する。レディ・メイドを始め、1917年には既製の便器にR・MUTTとサインしただけの〈泉〉を発表した。1915年から23年にかけては大きなガラス板に鉛の糸と油彩で描いた〈独身者によって裸にされた花嫁、さえも(大ガラス)〉を製作した。芸術という制度を強烈に拒否した彼は、今世紀の最も影響力を持つ芸術家の1人として認められている。 画面右にこのキーワードの再検索結果が表示されています。そちらもご覧ください。 |
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