データベースを使った楽しいサービスです。文中のキーワードをクリックすると、解説文があらわれ、同時に検索結果が表示されます。ぐるぐるキーワードをたどって遊んでみてください。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
くるつう゛ぁいる マキシミリアン(マックス)・クルツヴァイル
1886年から1888年、ウィーン美術アカデミーで、クリスティアン・グリーペンケール、レオポルド・カール・ミュラー、カジミール・ポッホヴァルスキーらに師事。1891年から1894年、パリのアカデミー・ジュリアンで学ぶ。1895年、キュンストラーハウスのメンバーとなる。1897年、ウィーン分離派の設立メンバーとなるが、後にクリムト・グループと共に分離派から脱退している。分離派の多くの展覧会に参加。1899年、ヘルマン・バールに絵画作品、「黄色い服の婦人」を賞賛される。1898年から1903年、「ヴェル・サクルム」に多くの作品で貢献し、「横たわる若い女性」は第14回展のカタログにも掲載される。1903年、「ヴェル・サクルム」のカレンダーの為の木版画「故郷へ」、分離派の第17回展のポスター。1903年、複製美術会社の為の色木版画「クッション」。カール・モル、フェルディナント・アンドリ、カール・クレネーク、ヨーゼフ・エンゲルハルト、ウィルヘルム・ベルナツィクらも貢献している「学校の壁画作品」に、リトグラフ二点を出品。1908年から1909年、クンストシャウに参加。1911年からは、ルドルフ・イェットマーの後任者として女子美術学校の教師を務める。1911年、ウィーン、ミートケ画廊にてカール・モルと展覧会を開催。1916年、戦争画家として動員される。
カテゴリー:作家
いまクリックまたは、検索したキーワードの解説
ウィルとは?【 作家名 】 ケーニヒスベルグに生まれる。版画家、収集家、画商。1716年パリに出て、はじめ、無一文で鉄砲鍛冶の金属彫刻工として職を得るが、そこで版画画商の注文を受けるようになる。ドイツの版画家の紹介でイアンサント・リゴーの肖像画を版画で制作する機会を得、リゴー夫人の版画などで名声を得た。後、ウィルの版画工房は、パリにおけるもっとも重要な版画制作センターの一つとなる。同時にそこは、画家や収集家、画商、そして若いドイツ人版画家が集まる場所となった。1755年アカデミーの会員となる。美術品や骨董の収集を行い、各国の芸術家と収集家の仲介役としての活動により、アウグスブルグ、ウィーン、コペンハーゲン、ベルリンの、外国のアカデミーの会員にも選ばれている。(「近世フランスの絵画と版画−東京富士美術館コレクションによる」図録 2002年) 画面右にこのキーワードの再検索結果が表示されています。そちらもご覧ください。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||