1892年から1898年、ウィーン工科大学で
カール・キューニッヒに師事。1897年、イタリアに研究旅行。1899年から1901年、ウィーン美術
アカデミーで
オットー・ヴァーグナーに師事。建築ディレクター、ヘルマン・
ミュラーのもとで実践を積む。最初は父親のアトリエで、後に独立して、賃貸住宅やウィーンの邸宅、とりわけ、ケルンテン、ドレスデン、メーレンのエンゲル薬局、などの建築に従事。キャバレー「ナッハトリヒト(常夜灯)」の内装と装飾。1904年、はじめて
エッチングを試みる。1905年、ユングブント展に造形作家として参加、その際、室内デザインにも従事する。1907年、ハーゲンブントのメンバーになる。多くの展覧会設備のデザインを請負う。1910年、「ノアの箱舟」、1913年、「パラダイス」、「小鳥のお説教」。1911年から1918年、頻繁に旅行をする。第一次世界大戦の際には、戦争画家として様々な戦線に赴く。1919年、「ノアの箱舟」のフリーズ(壁面上部の帯状装飾)、
エッチング「ファースト・インプレッション」。1920年、初めて劇場の演出を試みる。1924年、ウィーン
分離派メンバー。1928年、ウィーン紙大賞を受賞。キュンストラーハウスのメンバーとなる。ウィーン市から1931年、1948年に受賞。
トーマス・マン、ヨハン・ネポムック・ネストロイ、フェルディナンド・ライムンド、
アルトゥール・シュニッツラーらの作品の
リトグラフと本の挿絵を制作。