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らかん 1

羅漢 一

作家名:高村光太郎
制作年:1898年
技 法:木
高村光太郎16歳、美術学校1年生時の習作。彼は7、8歳の時、父から彫刻刀を与えられた。「回想録」(1944年)のなかで「私が父の彫刻の仕事を承けついでやるといふことは、誰も口に出して言はないうちに決まつて了つてゐたこと」と語っている。その修業は小刀の研ぎが最初歩で、次が地紋を板に彫る稽古をさまざま重ねて浮彫に至る。浮彫は粉本に拠っていた。狩野派の花鳥などから始まり、最後が本作品のような14、5世紀の画僧・明兆(兆殿司)の羅漢である。興味深いことに光太郎は自宅の工房では「直接弟子が教はるやうに教えては貰へなかった」(同前)という。父は明治において木彫の伝統を守るために、弟子たちには丁寧に指導する一方で、子には徹底して経験に学ばせる、かつての職人の教育を行っていたことになる。これは、高村家が木彫界の中心であり続けるための光雲らしい方策だったのではないか。(「高村光雲とその時代展」図録 2002年)


カテゴリー:作品
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高村光太郎とは?【 作家名 】

1883年高村光雲の長男として、東京に生まれる。1902年東京美術学校彫刻科を卒業し、研究科に残り、05年には西洋画科に移る。1906年渡米し、アートスチューデンツ・リーグに学ぶ。このころ荻原守衛を知る。1909年にはロンドン、パリを経て帰国し、岸田劉生らとフューザン会を結成する。1914年長沼智恵子と結婚。このころより彫刻に専念する。1916年「ロダンの言葉」翻訳刊行。1945年空襲によりアトリエを焼失し、岩手県花巻に疎開する。1947年帝国美術院会員に推挙されるが辞退。1953年記念碑「みちのく」が十和田湖畔に完成する。同年日本芸術院会員に推挙されるが辞退。1956年東京の中西利雄のアトリエで死去。彫刻家、画家、詩人であり、また評論家としても活躍した光太郎は、西洋の美術理論・思想を翻訳して日本に紹介し、日本の近代美術の理論面を支える役割を果たした。ロダンが制作した数多くの手や腕が完成作のための一部分であったのに対し、光太郎はそれだけで完結した作品とみなしていた。「手」は仏像の手印に興味を持っていたころの作品で、自分の手を見ながら作ったといわれている。(「日本近代彫刻の一世紀 写実表現から立体造形へ」図録 1991年)

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