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しま あおい 島あふひ
1896年徳島県に生まれる。1988年没する。1913年徳島県立高等女学校を卒業。はじめ日本画を学ぶが、1923年上京し、翌年川端画学校に入学、洋画を学ぶ。1926年から30年にかけて前田写実研究所に学び、前田寛治の指導を受ける。中央美術展、1930年協会展のほか、1927年から39年にかけて二科展に出品する。その間1937年には女流画家による美術団体七彩会の結成に参加する。1934年から一水会、47年から二紀会に出品、48年女流美術家協会の結成に参加する。1962年を最後に団体展を離れ、以降個展を中心に活動する。重厚なマチエールにより、キリスト教や聖書物語、あるいは仏典など、宗教的な精神風土を描き出す。1981年徳島県郷土文化会館で島あふひ展が開かれる。
カテゴリー:作家
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分離派とは?【 美術用語 】 ラテン語の動詞SECEDO(分離する)を語源としたヅェツェッシォーン。「分離派」と訳されている。19世紀末以降、ドイツ・オーストリアの各地では、既存の保守的・閉鎖的な芸術家協会等の機構のなかでは自由に発表活動ができない、発表の場が与えられていないと考えた、進歩的な芸術家たちが、官営事業化している展覧会とは別に、彼ら自身の協会や展覧会組織を持とうとし、相次いで新しく芸術家集団を結成した。「ヅェツェッシォーン(分離派)」とは、こうして結成されたグループにつけられた名称である。最初の創設は、1892年にシュトゥック、トリュブナーらを指導者としたミュンヘン分離派である。1897年には、クリムトを会長とするウィーン分離派が、1898年に、リーバーマンの指導のもとにベルリン分離派が成立した。ベルリン分離派は、「ブリュッケ」のメンバーを含む表現主義作家の出品拒否が原因で、1910年に再び分裂、新分離派が結成され、その最盛期をむかえた。分離派には特定の様式・理念はないが、建築・デザイン史からは、近代運動のひとつとみなされることもある。 画面右にこのキーワードの再検索結果が表示されています。そちらもご覧ください。 |
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