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もりずみ ちかな![]() 守住周魚 ![]()
1859年徳島県に生まれる。1925年没する。住吉派の画家、守住貫魚の六女。守住勇魚は兄。本名はタイという。周魚は画号だが、鯛(タイ)の魚と周の字を分解してつけたという。幼いときから父に住吉派の手ほどきをうける。1880(明治13)年、父とともに大阪に出、以後生涯を同地で過ごした。父の貫魚は、勇魚が洋画を学んだため、娘の周魚を後継者としての望みをかけ、1885(明治18)年別家させた。父の作画の手伝いをしながら、展覧会にも積極的に出品し多くの賞を得た。1884(明治17)年、大阪絵画品評会、四等賞受賞。1886(明治19)年、東洋絵画共進会、三等褒状受賞、石川県私立絵画品評会、二等褒状受賞。1890(明治23)年、第三回内国勧業博覧会、褒状受賞、浪華学画会絵画共進会、銅印受賞。1892(明治25)、日本美術協会、褒状三等受賞。1897(明治30)年、日本美術協会大阪支部第二回美術展覧会、逸品褒賞受賞。1901(明治34)年、扶桑絵画協会、二等褒賞受賞。1903(明治36)年、東洋美術奨励会、特別賞受賞。1897(明治30)には、日本美術協会大阪支部の技芸員に嘱託されている。
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カテゴリー:作家
![]() ![]() ![]() 守住貫魚とは?【 作家名 】 ![]() 1809年阿波(現徳島県)に生まれる。1892年没する。徳島藩士の子として生まれた。旧姓庄野。のちに守川、さらに住吉派を守る意味で守住と称した。字は士斎、通称徳次郎。伸美、輝美、定輝とも号した。別号に是姓斎、回春斎、寄生軒などがある。徳島藩の絵師で住吉派の渡辺広輝に学び、後に江戸で、住吉広定に師事。蜂須賀家に仕え、藩命で、畿内から北陸、信州、関東、さらに東海道を旅し、各地の風景を写生。また、江戸一橋徳川家御殿、京都御所紫寝殿の障壁画の制作に、住吉派の絵師として加わった。明治維新後は、大麻彦神社などの神官をつとめたが、大阪に移住。内国絵画共進会などで受賞を重ねるとともに、浪華画学校の設立に尽力した。明治宮殿造営に際しては、杉戸絵を制作し、明治23年(1890)帝室技芸員となった。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年) ![]() ![]() ![]() |
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