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えるまん ぽーる (えるまん るね じょるじゅ ぽーる) エルマン=ポール(エルマン・ルネ・ジョルジュ・ポール)
アカデミー・ジュリアンで学び、そこでヴァロットン、シャルル・モーラン、ボナール、ヴュイヤール、H・G・イベルスらに出会った。1893年頃、『口喧嘩』、『フランス通信』、『パリの声』などの諷刺雑誌に挿絵を寄せて身を立てていた。1890年頃、オリジナル石版画を手がけ始め、1891年に最初の多色刷版画を制作した。1890年代の後半から第一次世界大戦後まではアナーキストの雑誌のために挿絵を描いている。カリグラフックな描線やカリカチュアのスタイルに日本の影響が明らかに現れている。(P.F.)(「世紀末から 西洋の中の日本「ジャポニスム展」図録)
カテゴリー:作家
菊池芳文とは?【 作家名 】 本名三原常次郎。表具師の次男として生まれ、のち菊池家の養子となる。明治14年幸野楳嶺に入門する。翌年の第1回内国絵画共進会で銅賞となり、第2回展でも銅賞を受賞。19年の京都青年絵画研究会展で第1席に選ばれ、第4回内国勧業博覧会でも褒状となる。京都市立美術工芸学校教諭をつとめ、京都市立絵画専門学校の設立に際しても尽力し、開校とともに教諭となる。文展でも第1回展から審査員をつとめるなど明治後期の京都画壇に重きをなしたが、特に桜のモティーフを得意とした。(「京都国立近代美術館 所蔵名品集[日本画]」増補版 2003年) |
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