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れがめー フェリックス・レガメー
兄弟のフレデリックとジェロームと同様、父L・Pレガメーに絵を学び、後にルコック・ド・ボワボードランの下で学んだ。若い頃から、『娯楽雑誌』、『パリ生活』、『イリュストラシオン』、『モンド・イリュストレ』など数多くの大衆雑誌に挿絵や諷刺画を描いた。また、装飾デザイナーとしても働き、装飾美術学校(エコール・デ・ザール・デコラティフ)で教鞭をとっている。1873年、パリを離れて、エミール・ギメの日本旅行に同行し、旅行中挿絵画家として働いた。帰国後それが『日本散策』として出版されている。日本美術の影響は、何はおいてもジャポニズリーと呼ばれる日本のモティーフや衣装の模倣に明らかに現れている。
カテゴリー:作家
荻原守衛とは?【 作家名 】 1879年長野県穂高町に生まれる。1910年没する。1899年画家を志し上京、小山正太郎の不同舎で学ぶ。1904年渡欧中にロダンの「考える人」に感動し、彫刻家を志す。1908年第2回文展で「文覚」が三等賞を受賞。1909年第3回文展で「北条虎吉氏肖像」が三等賞を受賞する。第4回文展で絶作「女」が三等賞受賞。守衛はロダンから、彫刻を量塊としてとらえ、その中に有機的な躍動感を盛り込むことで、彫刻が空間の中で息づくのだということを学んだ。そして守衛の存在はまた、日本近代彫刻の礎となっている。彼の作品に込められた内的な生命感は、彫刻の自立を促すものであり、「坑夫」「デスペア」などはいずれも、日本近代彫刻史を語るに不可欠な作品で、若くして去った守衛の代表作といえる。碌山と号す。(「日本近代彫刻の一世紀 写実表現から立体造形へ」図録 1991年) |
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