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そむ アンリ・ソム(フランソワ・クレマン・ソミエ)
挿絵画家として出発し、その生涯に『芸術』、『シャ・ノワール(黒猫)』、『フランス通信』、『滑稽』のような雑誌や、『パリジェンヌによって描かれたパリジェンヌ』(1897年)のような挿絵本に作品を寄せた。1860年代の初めに、フェリックス・ブラックモンと知り合い、1867年頃にはパリの東洋語学学校で、フィリップ・ビュルティに出会った。互いの日本美術に対する敬慕の念が引き合わせたのであった。最初は、日本のモティーフを写したメニューのデザインやアドレス・カード、装飾デザイン(いくつかはアヴィランのためにデザインされた)、挿絵などに日本の影響が現れ、1880年代の作品には、さらに強い影響がうかがわれる。その頃、ソムはジョルジュ・オリオール、アンリ・リヴィエール、ウジェーヌ・グラッセ、スタンランらと共にロドルフ・サリのカフェ「シャ・ノワール(黒猫)」のサークルの一員として働いていた。ドライポイントの手法に熟達していたソムは、『エッチングのパリ』(1881年)、『優雅な生活』(1881年)、『新しいイラストレーション』などの版画集や、自分の『10人のおかみさん』(1881年)、『扇』のために版画を制作した。(P.F.)(「世紀末から 西洋の中の日本「ジャポニスム展」図録)
カテゴリー:作家
フェルナン・レジェとは?【 作家名 】 1881年フランスに生まれる。1955年没する。1897年から98年にかけてフランスのカンで建築を学び、1900年から02年まで建築の製図工としてパリで働く。1903年から装飾美術学校とアカデミー・ジュリアンで学び、エコール・デ・ボザールにも出入りする。印象派、セザンヌとその興味の対象を変えながら、1910年からはキュビスムや未来派に刺激される。キュビスムのグループに加わり、1913年にはアメリカで行われたアーモリー・ショウに作品が展示される。第一次世界大戦中1914年から17年、従軍。そのときに見た、日光の下でまぶしく光る銃や剥き出しになった金属が放つ魔法のような輝きに強い印象を受ける。この視覚的な体験を基に、除隊後はそのような機械のイメージを作品に取り入れるようになる。また1920年代には人体にも興味をひかれ、機械と人体をモチーフにして制作。これは抽象につながる近代的な表現であったが、その源はフランスの古典主義におけるバランスのとれた構成にあると言われる。1924年には映画にも取り組み〈バレエ・メカニック〉を発表する。1940年から45年にかけてアメリカに亡命し、戦後パリに戻った。(「亡命者の奇跡 アメリカに渡った芸術家たち」図録 1993年) |
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