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ぼーう゛ぁるれ ジャック=フィルマン・ボーヴァルレ
版画家、版画出版家。1750年にパリに出て絵を学び、1763年からサロンに出品。オリジナルの版画と同時に、絵画にもとづく素描を描き、それを版画化している。自身の素描にもとづいて描いているため、原作の絵画の正確な記録とはなっていない。ブーシェ、フラゴナール、グルーズ、ナティエなどの作品にもとづく版画を手がけ、同時代におけるもっとも優れた複製版画家の一人となった。洗練された精密な仕事ぶりで、きわめて評価が高い。(「近世フランスの絵画と版画−東京富士美術館コレクションによる」図録 2002年)
カテゴリー:作家
川端玉章とは?【 作家名 】 京都に蒔絵師の子として生まれる。幼名龍之助。晩年は璋翁と号した。はじめ、父から蒔絵の手ほどきを受けるが、中島来章に師事し円山派を学んだ。慶応2年(1866)江戸に出て、覗眼鏡の興行などを経た後、高橋由一、五姓田義松とともにワーグマンから洋画を学ぶ。そして、油絵具で屏風を描いたこともあったという。明治10年(1877)第一回内国勧業博覧会以降、受賞を重ね、第一回、第二回内国絵画共進会では、受賞作がフェノロサから評価を受ける。明治21年(1888)から、円山派を代表する画家として、東京美術学校で後進の指導にあたった。シカゴ万国博覧会に出品。日本青年絵画協会の結成に尽力した他、川端画学校校長、帝室技芸員、文展での審査員などを歴任した。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年) |
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