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じゃぜ ジャン=ピエール・マリー・ジャゼ
版画家。祖父の手ほどきを受け、そのもっとも優れた弟子となる。早くから版画、素描の制作をよくし、販売も行った。特にアクアチントの技法をよくし、その専門家となった。1817年にサロンにデビューし、それ以後、もっぱら絵画の複製版画の制作を行うようになる。アントワーヌ=ジャン・グロ、オラース・ヴェルネらの作品の複製版画により、その名声を確かなものとした。そのほか、ジャック=ルイ・ダヴィッド、アン=ルイ・ジロデの作品などの複製版画を制作している。また、第一帝政期の出来事を数多く描いて高い人気を得たが、限られた画題しかあつかわないとして批判も受けた。1846年にレジオン・ドヌール勲章を受章し、1865年までサロンに出品し続けた。(「近世フランスの絵画と版画−東京富士美術館コレクションによる」図録 2002年)
カテゴリー:作家
リストとは?【 作家名 】 1885年から1889年、ウィーン美術アカデミーでクリスティアン・グリーペンケールに師事、その後、ミュンヒェン美術アカデミーでルートヴィッヒ・フォン・レフツおよびパウル・ヘッカーに師事。さらに、パリで学ぶ。1897年、ウィーン分離派の創設に参加。1898年、分離派の展覧会およびカタログ制作の参加。「ヴェル・サクルム」に多数の作品を発表、寄稿。同誌の編集責任者も務める。クリムトグループと共に分離派を脱退した後、1908年から1909年、クンストシャウに参加。 |
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