![]() |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| データベースを使った楽しいサービスです。文中のキーワードをクリックすると、解説文があらわれ、同時に検索結果が表示されます。ぐるぐるキーワードをたどって遊んでみてください。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
くっき エンツォ・クッキ
1950年イタリアに生まれる。1970年代にイタリアで、芸術的な問題を扱う新しい方法や地平を切りひらこうとした画家達が現れた。そして1980年代にアメリカでシュナーベルが現れニューペインティングが脚光を浴びたが、イタリアでも、クッキ、クレメンテ、キアという3人の、Cで始まる名前をもつ人々が現れた。1977年、ローマのインコントリ・インテルナショナリ・ダルテでデビューしたクッキは、アドリア海に面する港町アンコナにずっと住み、制作を続ける。人体などをデフォルメして、原色や黒を多用した、色彩の強いコントラストによって描かれる絵画や、巨大な流木に彩色した彼の作品は、攻撃的で見る者を不安にさせる。しかしアンコナに住み続けてイタリアの伝統に根づき、個人的体験を想起しながらも頭をカラッポにして彼は描く。その中で生まれたドラマチックな物語性は、彼独特の詩的形式を現実化したものであり、機知にも富んでいる。1982年、ベルリンのツァイトガイストなどに出品。
カテゴリー:作家
藤島武二とは?【 作家名 】 鹿児島県鹿児島市に生まれる。初めは日本画を志し郷里で修業。上京し明治18年(1885)川端玉章に入門する。しかし明治23年洋画に転じ、同郷の曽山幸彦の指導をうけ翌年には明治美術会の会員になる。その後山本芳翠らに学び、明治29年黒田清輝らの白馬会の結城に参加する。同年東京美術学校洋画科の助教授となる。黒田からは外光派描写の影響を受けるが、生来の浪漫的、装飾的な変質は変わらなかった。明治38年文部省の命で43年まで渡欧しアカデミズムを学び、帰国後は東京美術学校教授となる。その後は官展を中心に我が国洋画画壇の指導的な役割を担った。作風は帰国後の模索の時代を経て、東洋的な人物画を描く。大正8年(1919)帝展審査員、同13年には帝国美術院会員となる。昭和に入って3年(1928)には皇室から委嘱のあった作品の題材を求めて、日本各地は言うに及ばす、台湾、蒙古、満州と取材旅行して数々の風景を描いた。昭和9年には帝室技芸員、同12年には第1回の文化勲章を受章した。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||