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らぐーざ ヴィンチェンツォ・ラグーザ
1841年イタリア、シチリア島に生まれる。1872年、全イタリア美術展で「装飾暖炉」が最高賞のウンベルト殿下賞を受賞、75年にはイタリア政府による日本派遣彫刻学教師選抜コンクールにおいて首席となる。1876年、工部美術学校彫刻科の教師として来日し、多くの優れた門下生を輩出する。1882年、工部美術学校彫刻科の廃止に伴い、妻清原玉を連れてイタリアに帰国。その後、日本の漆工芸の紹介に尽力。1927年死去。ラグーザは、35歳のときに来日、工部美術学校において塑造、大理石彫刻の技法などを指導し、大熊氏広や藤田文蔵など多くの彫刻家を育て、日本近代彫刻の基礎を築いた。明治15年に工部美術学校が閉鎖されると、のちにその妻とした玉を伴いイタリアに帰国し、工芸学校を設立するなどして日本の漆工芸の紹介に努めた。「清原玉像」は若い日本女性にモチーフをもとめたラグーザの日本人像の先駆的な作品である。(「日本近代彫刻の一世紀 写実表現から立体造形へ」図録 1991年)
カテゴリー:作家
リストとは?【 作家名 】 1885年から1889年、ウィーン美術アカデミーでクリスティアン・グリーペンケールに師事、その後、ミュンヒェン美術アカデミーでルートヴィッヒ・フォン・レフツおよびパウル・ヘッカーに師事。さらに、パリで学ぶ。1897年、ウィーン分離派の創設に参加。1898年、分離派の展覧会およびカタログ制作の参加。「ヴェル・サクルム」に多数の作品を発表、寄稿。同誌の編集責任者も務める。クリムトグループと共に分離派を脱退した後、1908年から1909年、クンストシャウに参加。 |
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