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こーくす ウッレ・コークス
1941年スウェーデンに生まれる。1960−62年ゲーレシュボルグ校、1960−68年王立美術アカデミーで学ぶ。1977−81年ヌンスク会長。1987年より王立美術アカデミーの学長を務める。スウェーデン現代美術の中心的な存在。北欧美術の伝統である表現主義を背景にして、彩度の高い色彩と激しい筆触で、民俗的なモティーフを暗示する組み作品による巨大な絵画空間を創出する。近代以降の諸様式を参照しながら自在に制作する態度は、ポスト・モダニズムの文脈に通じるものがある。(「自然と人間の対話 スウェーデン現代美術展」図録 1991年)
カテゴリー:作家
ホフマンとは?【 作家名 】 1870年、モラヴィアのブルトニッツェで生まれる。 オーストリアの建築家。師オットー・ヴァグナーの合理主義的な造形原理を長く継承したが、ホフマン自身は、禁欲的なロースのスタイルとは対照的な優雅さや繊細さを好む傾向があった。手工芸に関心を示し、1899年以降、ウィーン工芸学校で教鞭をとり、またウィーン工房の創立者の一人に名を連ねた(1903)。1897年にはオルブリヒらと「ウィーン・ゼツェッション」を組織。この頃にはマッキントッシュらのグラスゴー派から影響を受け、またアール・ヌーヴォーの造形原理をやや遅れてオーストリアに導入するのに努力した。1905年にゼツェッションが分裂したときにはクリムトのグループに加わった。代表作は、陸屋根の厳格な形態を見せるプルケルスドルフ・サナトリウム(1903)、ブリュッセルのストックレー邸(1905)。1914年にはドイツ工作連盟のケルン展にオースリトア館を出展、戦後の1920年には、ウィーン市建築官となる。ル・コルビュジエやバウハウスの新様式が力を得はじめるにつれ、ホフマンの個性的な作品はやや時代遅れとみなされるにいたり、彼自身も新傾向の純粋主義的な禁欲的なスタイルに歩調を合わせた。1956年、ウィーンで歿。 |
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