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ふらながん バリー・フラナガン
1941年イギリスに生まれる。バーミンガム美術工芸学校に学び、1954年からはロンドンのセント・マーチン美術学校でフィリップ・キングの教えを受ける。1965年グループHに参加。1966年セント・マーチン美術学校を優等で卒業。最初の個展をロンドンのロワン・ギャラリーで開く。1967年から71年までロンドンのセント・マーチン美術学校及びセントラル美術学校で教える。1970年第10回日本国際美術展(人間と物質)のために初来日。セント・マーチン美術学校で最初のエッチングを制作。1979年最初の「跳ねる野兎」を鋳造。1982年ヴェネチア・ビエンナーレのイギリス代表に選ばれる。カッセルの「ドクメンタ7」に出品。1983年テート・ギャラリーに多くの版画を寄贈し、これにより版画コレクションの全作品が揃う。ニューヨークのペース・ギャラリーで初の個展を開催。1985年フジテレビギャラリーでの個展のために来日。現在、ロンドンとスペインのイビサに在住、制作を行っている。
カテゴリー:作家
川合玉堂とは?【 作家名 】 1873年愛知県に生まれる。1957年没する。本名芳三郎。京都に出て、望月玉泉に師事。玉舟の号を与えられた。明治23年(1890)第三回内国勧業博覧会に出品する際、玉堂と改号。同年、玉泉の許可を得て幸野楳嶺の画塾に移った。竹内栖鳳、菊池芳文は同門。楳嶺の没後、明治29年(1896)に上京し、橋本雅邦に入門。日本美術院の創立に際して、師の雅邦とともに参加。受賞を重ねた。文展が開設されると審査員をつとめ、以後同展を中心に活躍した。東京美術学校教授、帝室技芸員、帝国美術院会員、帝国芸術院会員、日本芸術院会員を歴任。昭和15年(1940)には文化勲章を受賞した。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年) |
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