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みーす ふぁん でる ろーえ ルートヴィッヒ・ミース・ファン・デル・ローエ
1886年、ドイツ、アーヘンに生まれる。1896年から99年まで石工の父を手伝いながら、アーヘンのカテドラル附属学校に学ぶ。1905年、ベルリンに出て、07年までブルーノ・パウルの事務所で、1908年から11年にかけてペーター・ベーレンスの事務所でル・コルビジェやグロピウスと共に働く。1912年に独立。ベルリンで事務所を開くが、1914年から18年にかけて第一次世界大戦のため従軍。戦後、ハンス・リヒターやドゥースブルフ、リシツキーらと親しく交流し、ロシア構成主義やデ・スティルに近づく。1921年の末にベルリン市高層建築家協会が募集した高層オフィス・ビルのコンペに、翌年「鉄とガラスのスカイスクレイパー案」を提出する。1929年のバルセロナ万博では、ドイツ・パビリオンの設計を担当する。この時に、スペイン国王夫妻の王座としてデザインされたのがバルセロナ・チェアである。1930年、ハンネス・マイヤーの後任としてバウハウス校長を引き受けるが、ナチスの激しい攻撃により32年には閉鎖される。1938年、アーマー工科大学(後のイリノイ工科大学)の誘いを受けてアメリカに亡命。デザイン、設計などで活躍する。(「亡命者の奇跡 アメリカに渡った芸術家たち」図録 1993年)
カテゴリー:作家
ベラとは?【 作家名 】 ザイール南部にあるシャバ州の中心都市であるルブンバシ(旧エリザベトビル)は、銅やコバルトの産地として世界的に知られている。第二次世界大戦中にブラザビル(現コンゴの首都)で、軍務として現地の美術の保護に携わっていたブルターニュ出身のフランス人画家ピエール・ロマン=デフォッセが、チャド出身の従兵ベラを連れて、この地に入ったのは戦争末期のことであった。アフリカ人の芸術を保護、奨励することに深い関心を寄せていた彼は1944年、現地の人々を相手にしたアトリエ〈ル・アンガー〉を開設する。その最初のメンバーのひとりがベラであった。〈ル・アンガー〉では、デフォッセはただキャンバスと絵の具、それに場所だけを提供して、主題も構図も一切教えずに、もちろん西洋美術の画集に手を触れさせることもなく、もっぱら現地の人たちの自発性に委ねたといわれている。指先を使うベラの点描画法などは、実に個性的な手法であった。(「同時代のアフリカ美術」図録 1996年) |
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