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もほり なぎ ラースロー・モホリ=ナギ
1895年、ハンガリーに生まれる。1913年から14年にかけてブタペスト大学で法律を学ぶ。1914年から17年にかけて従軍し、大学卒業後の1918年、ハンガリーの前衛美術グループ「MA」に参加し、画家を目指す。1920年よりベルリンに住み、ダダイストたちと交流する。1922年にはレンズを用いず印画紙に直接焼き付けるフォトグラムの実験を始める。1923年にヴァイマルのバウハウスに招かれ、金属工房と基礎課程の親方となる。1924年、グロピウスとの共同編集で「バウハウス叢書」の刊行を始める。また、フォトモンタージュなど写真の実験も続けて行う。1928年にバウハウスを辞してベルリンに移り、舞台デザイナーとして働いた後、34年にアムステルダム、35年にロンドンへと亡命する。1937年、シカゴの芸術・工業協会から新しいデザイン学校設立の要請を受け、アメリカに亡命する。同年10月「ニュー・バウハウス アメリカ・デザイン学校」が設立されるが、わずか一年で閉鎖。1939年に自力でシカゴ・デザイン学校を開木、44年デザイン研究所と改称された。この学校は彼の没後、49年にイリノイ工科大学に吸収された。(「亡命者の奇跡 アメリカに渡った芸術家たち」図録 1993年)
カテゴリー:作家
ガボとは?【 作家名 】 1890年、ロシア、ブリアンスクに生まれる。本名ナウム・ネーミャ・ペヴスナー。アントワーヌ・ペヴスナーは兄。1910年、ミュンヘン大学の医学生となるが、12年に工学に転向する。また、ヴェルフリンの美術史の講義を聴く。1913年から14年にかけて、パリにいる兄ペヴスナーを訪ね、アーチペンコ、グレーズなどキュビストと知り合う。1914年頃から制作を始めるが、同年に第一次世界大戦が勃発し、ドイツとロシアが敵国となったため、ミュンヘンからコペンハーゲンに移り、その後オスロに移り、大戦中は兄とそこで過ごす。この時期に、兄を通じてロシアの構成主義を知り、キュビスム風の具象的な作品から、幾何学的な構成へと変化する。1917年、兄と共にロシア革命後のソヴィエトに戻り、モスクワでタトリン、マレヴィッチ、カンディンスキーらと交流するが、しだいにタトリンらの有用性を重視した芸術観との間の意見の相違を見る。1920年ペヴスナーと「リアリズム宣言」を出す。1923年にはベルリンに移り、ナチスによるアトリエ襲撃のあった32年までそこで住み、バウハウス関係者らと交流する。1946年、アメリカに渡り、制作を続けた。(「亡命者の奇跡 アメリカに渡った芸術家たち」図録 1993年) |
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