ぐるぐるアートワード
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ぐるぐるもくじ


アラベーラ・ボルトンの肖像



あらゆる試練に耐えて



アララットの船あるいは空の蜜



有元利夫



有山白崖



ある音楽家のための楽譜(徳島会場不出品)



ある種の関係



アルジェのユダヤ人(タンジールのユダヤ人花嫁)



アルジャントゥイユからサノワへの道



ある彫刻家の顔



アルテンシュタイン



アルテンベルク



アルデイア通り



アルトゥール・レスラーの肖像



〈アルトーは兵士たちの前で語る〉



アルハンブラ−ヌイイの祭り



〈ある場面の再現〉



アルバース



Alphabet Skin



アルプ


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もんどりあん

ピエト・モンドリアン

1872年、オランダに生まれる。幼い時から、アマチュア画家であった父や叔父の手ほどきで、絵を描き始める。1889年、小学校美術教師の資格を得て、教鞭をとる。1892年、中学校美術教師の資格も得るが、画家を志し、アムステルダムの国立美術学校に入学し、97年まで在学する。主に風景を描き、卒業後もセザンヌゴッホの影響下で制作を続ける。1911年、キュビスムに刺激を受け、14年までパリに滞在する。第一次世界大戦中の1914年から18年にかけて、オランダに戻り、14年には水平線と垂直線を交差させて構成されたプラス・マイナスと呼ばれる作風を生む。1919年にパリに戻り、20年「新造形主義」を出版し、水平線と垂直線、および三原色によって構成された作品を制作し始める。第二次世界大戦前夜の1938年にロンドンに渡り、40年にはアメリカに亡命する。ロンドンで手がけられた作品の大部分はアメリカまで運ばれ、そこで完成された。アメリカではハンス・リヒターアレクサンダー・コールダーらと親しく交流市、ブルトン、エルンストら亡命中のシュルレアリストたちとも親交をもった。アメリカで最も成果を上げた芸術家の一人。(「亡命者の奇跡 アメリカに渡った芸術家たち」図録 1993年)


カテゴリー:作家
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デ・スティルとは?【 美術用語 】

1917年、テオ・ファン・ドゥースブルフが、モンドリアンの協力を得て、レイデンで創刊し、1928年まで編集にあたったオランダの美術雑誌名。デ・スティルは「様式」の意味。最終号は1932年、ドゥースブルフ夫人が亡夫を記念して発行した「ドゥースブルフ追悼号」(通巻90号)。この雑誌は初めはモンドリアン新造形主義の原理をもっぱら扱っていたが、ドゥースブルフが執筆陣にダダイストやクプカを迎え内容が包括的になったことからモンドリアンは寄稿をやめ、1926年以降は造形されたものの効果や具体性を重視するエレメンタリズムが中心となった。このような経緯があるにせよ、両大戦の間で最も大きな影響を与えた雑誌である。また、デ・スティルの名称は、この雑誌に関係した芸術家、建築家のグループをも指し、彼らが始めた建築様式上の運動にも用いる。それは、キュビスムの影響を受け直角と滑らかな平面の組合せよりなる抽象形態と、色彩は原色と白、黒、灰のみを使用した純粋な抽象的造形を意図したものであった。

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