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びゅーり ポール・ビューリ
1922年、エーヌ・サンピエールに生まれる。1939年モンの美術学校を卒業する。1947年「若きベルギー絵画」のメンバーとなる。1948年「コブラ」の創立に加わる。1951年「若きベルギー絵画」賞を受賞。1952年「抽象絵画」のメンバーになる。1954年「空間主義」宣言を発する。1953年アンドレ・バルタザールと「デイリー・ブル」を創刊する。1955年パリの「運動」展に出品、61年フランスへ渡る。1964年アメリカ旅行。マルゾット賞を受賞。ヴェネチア・ビエンナーレ、カッセル・ドクメンタ3に参加。1966年美術批評賞を受賞。1970年、カリフォルニアのバークレー大学教授に迎えられる。1972年第11回日本国際美術展に出品。1973年ミネアポリス大学から名誉博士号。1976年地下鉄ブーズ駅の装飾を手掛ける。1982年パリで回顧展。1983年パリの国立美術学校のモニュメンタル彫刻科の教授になる。1985年パリ国際彫刻グランプリを獲得。1993年東北芸術工科大学に作品を設置。(「ベルギー現代美術展」図録 1994年)
カテゴリー:作家
竹内栖鳳とは?【 作家名 】 京都に生まれる。本名恒吉。はじめ四条派の土田英林につくが、17歳のとき幸野楳嶺に入門。棲鳳の号を受ける。楳嶺やフェノロサの示唆で、四条派の伝統だけでなく、幅の広い古画を研究した。若くして、内国絵画共進会などで入選し、受賞。明治25年(1892)の第21回京都博覧会での受賞作〈猫児負喧〉は、折衷的表現であったため「鵺派」と批判されたが、その後もさまざまな展覧会で受賞を重ねた。明治28年(1895)京都市立美術工芸学校教諭。明治33年(1900)には渡欧し、帰国の後、号を栖鳳と改めた。明治40年(1907)に文展が開設されると、毎回審査員をつとめ、京都市立絵画専門学校教諭、同教授、帝室技芸員、帝国美術院会員、帝国芸術院会員などを歴任。長く京都画壇の指導的存在であった。画塾竹杖会からは、多くの逸材を輩出した。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年) |
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