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ぱっけ リア・パッケ
1954年ベルギー、マルクセムに生まれる。1979年アントワープ、フィロソフィカルセンター・アウロラで個展。1980年アントワープ、ルイムテZで個展。1981年ブザンソン、ストラスブール、ブリュッセル、ポルトガル等で行われたパフォーマンス・フェスティバルに参加。1982年アントワープ、クラブモラルで個展。アントワープで「家庭でのマダム」を行う。1983年マダムとしてアントワープで「戦争で失った私の人を待つ」。1985年マダムとしてブリュッセルで「好きだった人へのお土産」。1987年ミラノ、グラツィア・テリビーレおよびアントワープ、ギャラリーモンテヴィデオで個展。1988年ハンブルク、フォールムで個展。また、アントワープで「マダム、動物園に行く」等を行うなど、各地でマダムとして活動する。(「ベルギー現代美術展」図録 1994年)
カテゴリー:作家
マティスとは?【 作家名 】 1869年フランスに生まれる。1954年没する。はじめは法律を学ぶが、まもなく画家を志す。22歳からパリでギュスターヴ・モローの指導を受け始める。この頃、ルオー、マルケ、ピサロらと知り合う。また、ルーヴル美術館で名作の模写を多数行う。1903年のサロン・ドトンヌ設立に参加する。1905年の同展では、ドラン、ヴラマンク、ルオーらと共に、その大胆な色彩と激しい筆致が注目を集め、半ば嘲笑を込めて「フォーヴ」と呼ばれた。1909年にロシアのシチューキン家のために大作〈ダンス〉を、また32年にはアメリカのバーンズ財団のために壁画〈ダンス〉を制作するなど、各地で活躍する。また1921年からは、パリとニースを往復する生活を送る。1940年のパリ陥落の後、ブラジルの渡航を試みるものの南仏に留まる。戦後も、切り絵、挿絵本、タピスリーなど幅広い活動を続け、特に南仏ヴァンスの礼拝堂の装飾は、彼の才能の集大成と言われる。20世紀美術においてピカソと匹敵する成果を残した一人といえるだろう。 |
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