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いけだ ようそん 池田遙邨
1895年(明治28年)岡山県に生まれる。1988年没する。本名昇一。遙村、遙、遙山人とも号す。1910年(明治43年)15歳の時単身で大阪に出て、初めは天彩画塾で洋画を学ぶ。1914年(大正3年)第8回文展で水彩画が初入選するが、その後日本画に関心をもち、小野竹喬をたよって京都に出て、竹内栖鳳に師事する。1921年(大正10年)、26歳で京都市立絵画専門学校に入学、1928年(昭和3年)と1930年(昭和5年)に帝展特選となる。30〜40歳代に全国を写生してまわり、1953年(昭和28年)には画塾青塔社を設立する。洋画風の写実表現から大和絵風の現代的な表現に移り、戦後は機知に富んだ文人的な独自の画風を完成した。1976年(昭和51年)には日本芸術院会員となり、1987年(昭和62年)に文化勲章を受章している。(「東四国阿波讃岐風景画展」図録 1993年)
カテゴリー:作家
狩野養信とは?【 作家名 】 1796年木挽町狩野家八代狩野伊川院栄信の長男として生まれる。1846年没する。名は、養信(はじめ「たけのぶ」、のちに「おさのぶ」)。通称庄三郎。最初は玉川としていたが、のちに清川院、会心斎とも号した。文政2年(1819)法眼。文政11年(1828)家督を継承。天保4年(1833)法印となった。天保10年(1839)、弘化2年(1845)にそれぞれ完成した、江戸城西の丸御殿、本丸御殿の再建に際する障壁画制作の中心となった。また、模写事業をすすめ、室町漢画や中国絵画、初期狩野派など多くの模写を残した。そのなかには、大和絵や沈南蘋など狩野派の伝統とは異なった模写も残されている。養信は、明治の東京画壇で活躍した狩野芳崖、橋本雅邦の師としても知られている。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年) |
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