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とみなが せいりん 富永青鱗
明治44年徳島市栄町に生まれる。1985年没する。独学で日本画を学び、昭和9年京都に出る。翌年京都市展に入選、その後文展、日本画院展などに入選し、昭和15年同志4人と無求会を結成。第1回展を銀座菊屋画廊で開催。昭和27年九州より京都へ帰る。昭和36年院展に〈魚屋〉が入選し、以後院展に出品することとなる。昭和39年紺授褒章を受章、昭和47年生々会を結成。日本美術院院友として活躍した。
カテゴリー:作家
文展とは?【 美術用語 】 文部省美術展覧会の略。1907年6月、勅令によって美術審査委員会官制がしかれ、続いて美術展覧会規程が告示公布され、最初の官制による展覧会として同年以降毎年秋季に開催された。当初から審査員の選出で紛糾し、美術界を統合した形をとるために当時日本画壇に分立した諸団体と洋画、彫刻の新旧両派から選出した委員に学識経験者を配して均衡をとった。1919年文部大臣の管理下に帝国美術院が設けられ帝国美術院展覧会に改組されたが、在野有力作家の吸収を目的として、35年文相松田源治により帝国美術院が改組され、37年ふたたび文部省美術展覧会として発足した。戦後は1946年日本美術展覧会(日展)として再出発したが、49年日本芸術院と日展運営会が共催することとなり、さらに58年から社団法人日展により運営されている。1937年からの文部省美術展覧会を新文展と呼ぶことがある。 |
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