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ぺっひぇ ダゴベルト・ペッヒェ
1887年ザルツブルグ州サンクト・ミヒャエルに生まれる。1906−08年、ウィーンの工科大学に在学。設計と建築を学び、その後1908−11年、ウィーン造形芸術アカデミーに在学。1911年ローマ賞を受けパリヘ旅行。1912年から陶磁器とカーペットの仕事を始める。「壁紙展」(1913年)、「分離派展」(ウィーン、1913年)、「国際美術展」(ローマ、1914年)、「工作連盟展」(ケルン、1914年)などに参加。1916年からウィーン工房に加わる。1917−18年、工房のチューリヒ支店の責任者、また1917年以降23年まで工房の共同責任者となった。工房の後期においてホフマンと共に最も重要なデザイナー。工房のために、家具、銀や錫などの金属製品、アクセサリー、琺瑯、亀甲、象牙、ガラス、陶磁器、文房具、装丁、皮革、グラフィック、広告、ポストカード、テキスタイル、ファッション、チュール、レース、壁紙、ビーズ、舞台装飾、衣装、額、彫像、玩具、壁面ステンシル装飾、カーテン、クッションなど多岐にわたる分野のデザインを手掛けた。1923年ニーダエスタライヒ州のメートリンクで歿。(「ホフマンとウィーン工房展」図録 1996年)
カテゴリー:作家
ダダとは?【 美術用語 】 第一次大戦中、ヨーロッパおよびアメリカに起った運動。1916年、チューリヒのキャバレ・ヴォルテールで、トリスタン・ツァラ、ジャン・アルプらが、辞典の一頁から偶然に拾った言葉「ダダ」を用いた。大戦の不安のなかで、合理主義文明とその社会体制を否定し、破壊しようという運動で、おびただしいデモンストレーションとスキャンダルを通じて「なにも意味しない」虚無のダダを唱えた。この否定の精神は、ドイツではヒュルゼンベック、グロスらにより政治的色彩を濃くした。またニューヨークでマルセル・デュシャン、ピカビアらが写真のコラージュや、レティ・メイドのオブジェを使った時期をニューヨーク・ダダと呼ぶが、デュシャンの芸術そのものへの否定精神(反芸術)は、第二次大戦後の若い作家に受け継がれた。さらに1919年にケルンでエルンスト、アルプらが起したダダ運動は、偶然性や意識下の世界を通じて、のちにシュルレアリスムや抽象表現主義への道をひらいた。 |
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