1886年ニーダーエスタライヒ州のペヒラルンに生まれる。1905年、ウィーンの工芸学校に奨学生として入学。1907年から
ウィーン工房で働くようになり、1908年、自作の詩に
クリムトへの献辞と8枚の
リトグラフをつけた絵本『夢みる少年たち』を
ウィーン工房より出版する。同年と1909年の「クンストシャウ」に出品する一方、ポスター・デザインなども行っている。また1908年には戯曲『殺人者、女たちの希望』を執筆しており、グラフィックと文学を統合した、ウィーンでは独自の
表現主義的な活動を始める。この頃、A.
ロースと親交を結び、
ロースの勧めで肖像画を多く描くようになる。1910年には、
ベルリンで創刊されたばかりの『
デア・シュトゥルム』の「今週の顔」欄の人物画を担当する。第一次世界大戦で重傷を負いその後1919−24年までドレスデンの
アカデミーで教鞭をとる。ナチス政府主催の「
退廃芸術展」(1938年)に自分の作品が出品されるとイギリスへ亡命、その後も世界各地を巡り精力的に制作活動をする。1953年にはザルツブルグに「視るための学校」を開設し、以後10年間そこで教える。1980年
スイス、モントルーで歿。(「
ホフマンと
ウィーン工房展」図録 1996年)