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しーれ エゴン・シーレ
1890年ドナウ河畔の小都市トゥルンに生まれる。クレムス及びクロスターノイブルクのギムナジウム時代から画才を発揮していたシーレは、16歳でウィーン造形芸術アカデミーの入学試験に合格する。1907年に生涯の師と仰いだG.クリムトと出会う。1909年、C.グリーペンケールの保守的な教育に反発し、アカデミーを自主退学。多くの同志と「新芸術集団」を結成する。同年にJ.ホフマンを知り、彼の紹介でウィーン工房と交渉を持つようになる。1910年にはウィーン工房がシーレのデザインによる絵葉書を3枚出版している。1912年、ノイレングバッハで「不道徳」「未成年者誘拐」の容疑で短期間の投獄生活をおくる。1915年、召集されオーストリア=ハンガリー軍に入隊。1918年の第49回分離派展でシーレの作品がメイン・ホールを飾り、はじめての大成功をおさめる。同年、スペイン風邪により、ウィーンで歿。(「ホフマンとウィーン工房展」図録 1996年)
カテゴリー:作家
リプシッツとは?【 作家名 】 1891年リトアニアに生まれる。1973年没する。(イタリア、カブリ)本名ハイム・ジャコブ・リプシッツ。建築を学んだ後1909年パリに出て、エコール・デ・ボザールで彫刻と素描を学ぶ。1912年頃からモンパルナスに住み、エコール・ド・パリの作家達と交流する。1913年から形態を幾何学的に還元した彫刻を制作、15年からは人体をモチーフとした彫刻を制作、キュビスムの彫刻家と目されるようになる。1920年ローザンベール画廊ではじめての個展を開き、22年バーンズ財団の依頼で、ペンシルバニアに石の大型レリーフを制作する。1920年代以降は、自ら「透明彫刻」と名付けた軽快な線的彫刻を制作し、彫刻に新しい地平を開く。1930年代になると、作風は次第に有機性と神秘性を加え、闘争や抱擁をテーマにうねるような量塊によって深い感情表現を追求する。1941年以降ニューヨークに定住し、戦後はアメリカ各地に数多くのモニュメントを制作する。(「なぜか気になる人間像 徳島県立近代美術館所蔵名品展」図録(埼玉県立近代美術館)1992年) |
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