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しーれ エゴン・シーレ
1890年ドナウ河畔の小都市トゥルンに生まれる。クレムス及びクロスターノイブルクのギムナジウム時代から画才を発揮していたシーレは、16歳でウィーン造形芸術アカデミーの入学試験に合格する。1907年に生涯の師と仰いだG.クリムトと出会う。1909年、C.グリーペンケールの保守的な教育に反発し、アカデミーを自主退学。多くの同志と「新芸術集団」を結成する。同年にJ.ホフマンを知り、彼の紹介でウィーン工房と交渉を持つようになる。1910年にはウィーン工房がシーレのデザインによる絵葉書を3枚出版している。1912年、ノイレングバッハで「不道徳」「未成年者誘拐」の容疑で短期間の投獄生活をおくる。1915年、召集されオーストリア=ハンガリー軍に入隊。1918年の第49回分離派展でシーレの作品がメイン・ホールを飾り、はじめての大成功をおさめる。同年、スペイン風邪により、ウィーンで歿。(「ホフマンとウィーン工房展」図録 1996年)
カテゴリー:作家
川端龍子とは?【 作家名 】 1885年和歌山県に生まれる。本名昇太郎。1895年(明治28)、一家で東京に転居する。1904年に白馬会洋画研究所で、6年には太平洋画会で洋画を学び、7年の東京勧業博覧会、第1回文展にそれぞれ入選し、翌年の第2回文展にも入選する。1913年(大正2)洋画研究のためにアメリカに留学するが、ボストン美術館等で東洋・日本の古美術に感銘を受け、半年の滞在ののち帰国、日本画に転向し、自然主義を標榜する平福百穂らの无声会に参加する。翌1914年東京大正展覧会で初の日本画入選。1915年には、平福百穂、小川芋銭らと珊瑚会を結成する。また同年の第2回再興院展に入選、第3回展で樗牛賞を受賞して院友となり、1917年の第4回展で同人に推挙された。以後、1928年(昭和3)に脱退するまで院展を活動の場とした。1929年に青龍社を創立、主宰する。1959年には文化功労者となり文化勲章を受章。その作品は、洋画研究の成果を反映させた力強い表現力と大胆でスケールの大きい画面構成を特色としている。(「大正の新しき波 日本画1910−20年代」図録 1991年) |
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