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つぇいまー フリッツ(フリートリヒ)・ツェイマー
1886年ウィーンに生まれる。1902−08年工芸学校に在学。A.ロラー、C.O.チェシュカ、J.ホフマン、F.メッツナーに師事。ウィーン工房のためにポストカード、プログラム、その他印刷物、キャバレー・フレーダーマウスのステージセットのデザインを提供。「ディ・ユンゲン(青年)展」(ミートケ画廊、1906年)、「国際建築展」(1908年)、「簡素な家具展」(芸術産業美術館、1902年)、「ドイツ芸術展」(デュッセルドルフ、1928年)に参加。オーストリア工作連盟、キュンストラーハウス、分離派の会員。1940年ウィーンで歿。(「ホフマンとウィーン工房展」図録 1996年)
カテゴリー:作家
帝展とは?【 美術用語 】 文部大臣の管理下に設けられた帝国美術院によって、1919年から35年まで開催された美術展覧会。1907年から文部省美術展覧会(文展)が開かれたが、次第に二科会、日本美術院、国画創作協会など在野の有力団体の活動が活発化したのに対して、文展にはアカデミズムの弊害が目立つようになった。その対応策として文展創設以来審査にあたってきた老練作家を帝国美術院会員とし、比較的若い世代を審査員に起用することで今までの文展に活気を吹き込もうとした。この改革は一定の成果をあげたが、1935年在野有力作家の吸収を目的として文相松田源治によって帝国美術院が改組され、37年ふたたび文部省美術展として発足した。戦後は1946年日本美術展覧会(日展)として再出発したが、49年日本芸術院と日展運営会が共催することとなり、さらに58年から社団法人日展により運営されている。 |
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