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くろーぐ ペール・クローグ
幼い頃よりモンパルナスに馴染み成長したクローグだが、故国には毎年のように戻り個展や公募展に出品するなど、フランスとノルウェー両国で活躍をした画家である。アカデミー・コラロッシでの教えに不満を抱くようになったクローグはマティスのもとに移った。ここで学んだのは1年という短い期間であったが、フォースムの洗礼を受け、父から学んだアカデミムスの作風を脱していった。この頃よりサロン・デ・ザンデパンダンへの出品を始めている。彼はその後も続いて起こる前衛的運動を常に敏感に取り入れ、作風を変転させていったが1920年代に入るとその画風は写実的なものに落ち着き、自己のスタイルを確立した。本展出品作は、当時の愛人テレーズ・トレーズをモデルにしたものである。彼は妻の愛人であったパスキンの死(1930年)をきっかけに妻と離婚し、テレーズとも別れ、ノルウェーに帰住している。オスロでは美術界の指導にあたり、また舞台美術や壁画制作なども多く手掛けた。桧和田美嘉(前・呉市立美術館学芸員)(「パスキンとエコール・ド・パリ−1920年代 哀愁のパリ−」図録 1996年)
カテゴリー:作家
ベラとは?【 作家名 】 ザイール南部にあるシャバ州の中心都市であるルブンバシ(旧エリザベトビル)は、銅やコバルトの産地として世界的に知られている。第二次世界大戦中にブラザビル(現コンゴの首都)で、軍務として現地の美術の保護に携わっていたブルターニュ出身のフランス人画家ピエール・ロマン=デフォッセが、チャド出身の従兵ベラを連れて、この地に入ったのは戦争末期のことであった。アフリカ人の芸術を保護、奨励することに深い関心を寄せていた彼は1944年、現地の人々を相手にしたアトリエ〈ル・アンガー〉を開設する。その最初のメンバーのひとりがベラであった。〈ル・アンガー〉では、デフォッセはただキャンバスと絵の具、それに場所だけを提供して、主題も構図も一切教えずに、もちろん西洋美術の画集に手を触れさせることもなく、もっぱら現地の人たちの自発性に委ねたといわれている。指先を使うベラの点描画法などは、実に個性的な手法であった。(「同時代のアフリカ美術」図録 1996年) |
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