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しゅとぅるーと トーマス・シュトゥルート
1954年ドイツのヘルダーンに生まれる。デュッセルドルフの美術アカデミーで学ぶ。1979年の、出身地のライン地方美術館でのグループ展を皮切りに、国内外のさまざまな展覧会に出品する。1987年には「ミュンスター彫刻プロジェクト」(ミュンスター)に、90年にはヴェネチア・ビエンナーレの「アペルト’90」(ヴェネチア)に出品した。同年、京都国立近代美術館他を国内で巡回した「移行するイメージ 1980年代の映像表現」展に出品されるなど、国内でも広く知られるようになった。
カテゴリー:作家
竹内栖鳳とは?【 作家名 】 京都に生まれる。本名恒吉。はじめ四条派の土田英林につくが、17歳のとき幸野楳嶺に入門。棲鳳の号を受ける。楳嶺やフェノロサの示唆で、四条派の伝統だけでなく、幅の広い古画を研究した。若くして、内国絵画共進会などで入選し、受賞。明治25年(1892)の第21回京都博覧会での受賞作〈猫児負喧〉は、折衷的表現であったため「鵺派」と批判されたが、その後もさまざまな展覧会で受賞を重ねた。明治28年(1895)京都市立美術工芸学校教諭。明治33年(1900)には渡欧し、帰国の後、号を栖鳳と改めた。明治40年(1907)に文展が開設されると、毎回審査員をつとめ、京都市立絵画専門学校教諭、同教授、帝室技芸員、帝国美術院会員、帝国芸術院会員などを歴任。長く京都画壇の指導的存在であった。画塾竹杖会からは、多くの逸材を輩出した。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年) |
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