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あさい ちゅう 浅井忠
東京都に生まれる。1863年父の死去のため家督を相続し佐倉に帰郷。翌年佐倉藩の絵氏黒沼槐山に花鳥画を学ぶ。1873年上京し、箕作塾で英学を学び、1876年国沢新九郎の彰技堂に入門。初めて西洋画の初歩を学び、工部美術学校に入学してフォンタージに師事する。1878年フォンタネージの帰国後、後任のフェレッティを不満として美術学校を退学。1899年明治美術界を創立。1898年東京美術学校教授となる。1900年渡仏し、パリ近郊のグレーなどに滞在。1902年パリを立ち、イタリア、ドイツ、イギリスを巡歴して帰国。東京美術学校を辞し、京都工芸学校教授に就任して京都に移る。1903年自宅に聖護院洋画研究所を創設。1906年関西美術院を開設し、初代院長となる。(「みづゑのあけぼの 三宅克己を中心として」図録 1991年)
カテゴリー:作家
川端龍子とは?【 作家名 】 1885年和歌山県に生まれる。本名昇太郎。1895年(明治28)、一家で東京に転居する。1904年に白馬会洋画研究所で、6年には太平洋画会で洋画を学び、7年の東京勧業博覧会、第1回文展にそれぞれ入選し、翌年の第2回文展にも入選する。1913年(大正2)洋画研究のためにアメリカに留学するが、ボストン美術館等で東洋・日本の古美術に感銘を受け、半年の滞在ののち帰国、日本画に転向し、自然主義を標榜する平福百穂らの无声会に参加する。翌1914年東京大正展覧会で初の日本画入選。1915年には、平福百穂、小川芋銭らと珊瑚会を結成する。また同年の第2回再興院展に入選、第3回展で樗牛賞を受賞して院友となり、1917年の第4回展で同人に推挙された。以後、1928年(昭和3)に脱退するまで院展を活動の場とした。1929年に青龍社を創立、主宰する。1959年には文化功労者となり文化勲章を受章。その作品は、洋画研究の成果を反映させた力強い表現力と大胆でスケールの大きい画面構成を特色としている。(「大正の新しき波 日本画1910−20年代」図録 1991年) |
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