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ぼーくらー テオドール・ボークラー
1919年、冬学期からワイマール・バウハウスに入学し、イッテンとファイニンガーの授業を受ける。1920年、冬学期からバウハウス陶器工房(ドルンブルク)の徒弟となる。1923年、「バウハウス展」のために陶器の量産モデルを制作。1924年、ドルンブルクを去り、27年にはマリア・ラーハにあるベネディクト会大修道院に入り、神学と哲学を学ぶ。1929年、陶器作品がマリア・ラーハの芸術工房「アルス・リトゥルギカ」に認められる。1939−48年、マリア・ラーハのベネディクト会大修道院長に就任。48年からは「アルス・リトゥルギカ」の工房と出版の監督をする。1951年、陶磁器工場のために種々の作品を制作するようになる。1968年、マリア・ラーハで死去。(「バウハウス展−ガラスのユートピア」図録 2000年)
カテゴリー:作家
竹内栖鳳とは?【 作家名 】 京都に生まれる。本名恒吉。はじめ四条派の土田英林につくが、17歳のとき幸野楳嶺に入門。棲鳳の号を受ける。楳嶺やフェノロサの示唆で、四条派の伝統だけでなく、幅の広い古画を研究した。若くして、内国絵画共進会などで入選し、受賞。明治25年(1892)の第21回京都博覧会での受賞作〈猫児負喧〉は、折衷的表現であったため「鵺派」と批判されたが、その後もさまざまな展覧会で受賞を重ねた。明治28年(1895)京都市立美術工芸学校教諭。明治33年(1900)には渡欧し、帰国の後、号を栖鳳と改めた。明治40年(1907)に文展が開設されると、毎回審査員をつとめ、京都市立絵画専門学校教諭、同教授、帝室技芸員、帝国美術院会員、帝国芸術院会員などを歴任。長く京都画壇の指導的存在であった。画塾竹杖会からは、多くの逸材を輩出した。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年) |
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