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ぶれでんでぃーく ハインリッヒ・ブレデンディーク
1904年、アウリッヒに生まれる。1920年−24年まで、家具職人としての教育を受ける。1924年−26年、シュトゥットガルトとハンブルクの工芸学校に学ぶ。1927年−30年、バウハウスに在学し、金属工房に学ぶ。そこでランプ製作に参加する。1930年、バウハウスのディプロムを取得する。1930年−31年、ベルリンでモホリ=ナギとヘルベルト・バイヤーのアトリエで協力する。1935年から、オルデンブルクでヘルマン・ガウテルと協同して、家具デザインを手がける。1973年、シカゴに移住し、1945年まで、モホリ=ナギが率いる「ニュー・バウハウス」(デザイン研究所)の木材工房と金属工房の「基礎デザイン」の主任を務める。1945年−52年、シカゴのデザイン研究所の助教授を務める。1952年以降、ジョージア州アトランタのジョージア工科大学で工業デザインの教授と主任を務める。ヒン・ブレーデンディーク(HIN BREDENDIECK)とも名乗っている。(「バウハウス展−ガラスのユートピア」図録 2000年)
カテゴリー:作家
小堀鞆音とは?【 作家名 】 下野(現栃木県)に生まれる。本名桂三郎。農業を営みながら絵を描いた父や兄の手ほどきを受けた後、明治17年(1884)上京。同年、第二回内国絵画共進会へ出品した作品に対して、川崎千虎が有職故実の問題点を指摘したのをきっかけとして、千虎に入門。土佐派と有職故実を学ぶ。内国勧業博覧会で受賞を重ねた他、日本青年絵画協会、日本絵画協会に参加。東京美術学校助教授となるが、美術学校騒動で辞任。日本美術院創立に参加し正員となる。美術院と日本絵画協会の連合共進会に出品するが、次第に離れていき、日本美術協会に出品することが多くなる。紫紅会、歴史風俗会を設立。明治41年(1908)東京美術学校に復職し、教授となる。文展審査員、帝室技芸員、帝国美術院会員などを勤めた。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年) |
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