![]() |
|||
| データベースを使った楽しいサービスです。文中のキーワードをクリックすると、解説文があらわれ、同時に検索結果が表示されます。ぐるぐるキーワードをたどって遊んでみてください。 | |||
|
しゅみっと クルト・シュミット
1901年、ザクセン地方のリムバッハに生まれる。1920−24年、ワイマール・バウハウスに在学し、イッテンの予備課程、クレーやカンディンスキーの授業を受け、壁画工房、舞台工房で学ぶ。23年には「バウハウス展」のために「メカニック・パレエ」を手掛ける。24年にはシャヴィンスキーとともにパントマイム「配電盤の男」を上演する。1930年、グライツの織物学校でゴブラン織の技術を学ぶ。1937−41年、美術や郷土史に関する文章を執筆する。1946−52年、ゲラでデザイナー、装飾家として活躍。1952−61年、ゲラの木工所で家具塗装に従事する。1961−89年、抽象画を描き、画家として活動し始める。89年健康上の理由により絵画制作を中断。現在ゲラ在住。(「バウハウス展−ガラスのユートピア」図録 2000年)
カテゴリー:作家
ミュシャとは?【 作家名 】 画家、イラストレーター、室内装飾家。チェコのイヴァンチツェ生まれ。1879年、ウィーンの舞台装飾会社で働き、夜間学校に通う。83年芸術庇護者のクーエン=ベラッシ伯爵に会い、城の食堂と書斎の室内装飾の仕事を依頼される。伯爵は以後、ミュシャのパトロンになる。ミュンヘンの美術学校を出た後、87年にパリに出て短期間アカデミー・ジュリアンに通う。それ以来、彼は絵画に主に専念することになる。90年より様々な雑誌、新聞に評論を寄せるようになる。92年より本のイラストを始める。並行してフランス芸術家協会(1894年)や第20回100人展に出品する。1896年、1897年には個展を開催する。1892年より広告の世界に入る。広告の世界で注目されるようになるのは94年からである。その後10年間、ミュシャの広告における業績は絶頂をきわめた。1903年、初めてアメリカへ旅し、パリとプラハ、ボヘミアを定期的に行き来するようになる。少しづつチェコ人としてのアイデンティティーを意識するようになり、1910年からスラブの芸術の人生を捧げる決意をした。(「黄金時代のポスター芸術」図録 1998年) |
||