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しゅらいふぁー フリッツ・シュライファー
1903年、プファッフェンホーフェンに生まれる。ヴュルツブルクの自動車整備工場で実習。1922−24年、バウハウスに在学。ムッヘの予備課程、シュレンマーの彫刻工房、カンディンスキーの壁画工房に学ぶ。1923年、「バウハウス展」のためのポスターが1等賞となる。1925−27年、ミュンヘンエ科大学で建築を学ぶ。1927−30年、ハンブルクとエッセンで広告の仕事に従事。1930−33年、ハンブルク州立美術学校で教鞭をとる。1933年、教職を解任される。1933−39年、フリーの建築家として活動する。写真の仕事も行う。1939−45年、空軍基地の建築顧問となる。1945−58年、ハンブルク州立美術学校の建築学科長を務める。1958 自らの建築事務所を構える。1963年から、グラフィックの仕事に従事。1977年、ハンブルクで死去。(「バウハウス展−ガラスのユートピア」図録 2000年)
カテゴリー:作家
文展とは?【 美術用語 】 文部省美術展覧会の略。1907年6月、勅令によって美術審査委員会官制がしかれ、続いて美術展覧会規程が告示公布され、最初の官制による展覧会として同年以降毎年秋季に開催された。当初から審査員の選出で紛糾し、美術界を統合した形をとるために当時日本画壇に分立した諸団体と洋画、彫刻の新旧両派から選出した委員に学識経験者を配して均衡をとった。1919年文部大臣の管理下に帝国美術院が設けられ帝国美術院展覧会に改組されたが、在野有力作家の吸収を目的として、35年文相松田源治により帝国美術院が改組され、37年ふたたび文部省美術展覧会として発足した。戦後は1946年日本美術展覧会(日展)として再出発したが、49年日本芸術院と日展運営会が共催することとなり、さらに58年から社団法人日展により運営されている。1937年からの文部省美術展覧会を新文展と呼ぶことがある。 |
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