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う゛ぁろっとん フェリックス・ヴァロットン
ローザンヌに生まれ、同地で美術教育を受けた後、アカデミー・ジュリアンで絵を学ぶため、1882年にパリに移った。パリでは、トゥールーズ=ロートレックとシャルル・モーランに出会っている。1880年代の後半、おそらくシャルル・モーランに手法を教わり、この時期、収集していた浮世絵の影響で、木版画を始めた。初めて板目木版を制作したのは1891年で、生涯を通して、彼が最も好み、また成功した手法がこれであった。日本の影響は、その手法と、同時代の生活の情景というテーマに現れている。1892年に、初めての多色刷石版画を制作し、この手法でポスター数点(そのうち1枚は1896年、S・ビングのギャラリー「アール・ヌーヴォー」のために制作された)や『口喧嘩』誌(1893年)、『うまい汁』誌のための挿絵を制作した。1890年代にナビ派の画家たちと交際したことから、『パリの声』、『ペナールおじさん』、『新時代』、『ルヴュ・ブランシュ』などの大衆向きの雑誌や、アナーキストの雑誌に版画を制作した。彼の木版画は『エスタンプ・オリジナル』誌(1893年、1894年)や19世紀末の数多くの版画集に収載されている。(P.F.)(「世紀末から 西洋の中の日本「ジャポニスム展」図録)
カテゴリー:作家
ベルガーとは?【 作家名 】 1892年ウィーンに生まれる。1911年よりウィーン工芸学校在学。O.シュトルナートとJ.ホフマンに師事。ウィーン工房のためにテキスタイル、銀器をデザインした。同じく工房に参加していた、O.レンゲッテが1917年に編集したモード雑誌『婦人世界』のグラフィックに協力。ビミニ社のためのガラス器をデザインした。ウィーン市の建築計画に従事1920−36年、30本以上の映画のセットの仕事をし、代表的なものに1920年の「王子と乞食」、1923年の「デア・ユンゲ・メダルドウス」、1927年の「カフェ・エレクトリック」などがある。1936年からモスクワに移り、1981年同地で歿。(「ホフマンとウィーン工房展」図録 1996年) |
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