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いのくま げんいちろう 猪熊弦一郎
1902年香川県に生まれる。1993年没する。本名は玄一郎。東京美術学校西洋画科で藤島武二に師事するが健康上の理由から1926年中退。同年から帝展に入選、1930年頃から「弦一郎」と号する。1936年新制作派協会の設立に参加。1938年に渡欧、主にフランスに滞在する。滞欧中には、アンデパンダン展に出品し、一時藤田嗣治とアトリエを構える。またマティスに指導を受けた。大戦のため1940年帰国した後も、国内外の様々な展覧会に作品を発表する。モダニズムの多様な表現を自由に試み、洒脱な人物像を描いてきたが、1955年からニューヨークに在住し、以後抽象絵画に転じる。抽象に向かってからも作風は様々に発展し、また壁画やステンド・グラス、彫刻的な環境造形物、家具、茶室のデザインなども手掛けている。1964年第6回現代日本美術展では、国立近代美術館賞を受賞した。
カテゴリー:作家
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川端玉章とは?【 作家名 】 京都に蒔絵師の子として生まれる。幼名龍之助。晩年は璋翁と号した。はじめ、父から蒔絵の手ほどきを受けるが、中島来章に師事し円山派を学んだ。慶応2年(1866)江戸に出て、覗眼鏡の興行などを経た後、高橋由一、五姓田義松とともにワーグマンから洋画を学ぶ。そして、油絵具で屏風を描いたこともあったという。明治10年(1877)第一回内国勧業博覧会以降、受賞を重ね、第一回、第二回内国絵画共進会では、受賞作がフェノロサから評価を受ける。明治21年(1888)から、円山派を代表する画家として、東京美術学校で後進の指導にあたった。シカゴ万国博覧会に出品。日本青年絵画協会の結成に尽力した他、川端画学校校長、帝室技芸員、文展での審査員などを歴任した。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年) 画面右にこのキーワードの再検索結果が表示されています。そちらもご覧ください。 |
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