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かんばら たい 神原泰
1898年東京都に生まれる。中央大学を卒業後、フランス語、ラテン語、イタリア語を学ぶ。はじめ詩人として出発するがイタリアの未来派運動に興味をもち、その研究に没頭するかたわら自らも絵画の制作をはじめる。1917年第4回二科展に〈麗はしき市街、おゝ複雑よ いらだちよ〉を発表する。この作品は日本で展覧会に発表された最初の抽象画ともいわれる。1920年初めての個展に際し『第1回神原泰宣言書』を発表、当時の既成画壇とその様式を否定する。1922年古賀春江、矢部友衛、中川紀元らと前衛グループ「アクション」を結成、24年三科造型美術協会の結成に参加、25年同協会の解散後岡本唐貴、矢部友衛らと「造型」を結成し『造型宣言』を発表する。大正期の前衛芸術運動のリーダーの一人として活躍するが、1927年「造型」の改組にあたり退会し、絵画の制作を中断、詩作、評論、シナリオ、演出などで活躍する。近年になって絵画の制作を再開する。(「ピカソと日本」図録 1990年)
カテゴリー:作家
ネオ・ダダとは?【 美術用語 】 1950年代の末、ニューヨークにおいて、ラウシェンバーグとジャスパー・ジョーンズが、あいついで個展を開いた。当時の美術の世界は、抽象表現主義が全盛をきわめていたが、その中で彼らは、日常の具体的、卑俗的な、すぐそれと知れるようなものを画面に登場させ、大胆な画風を示した。ラウシェンバーグは、絵画に布や写真、印刷物などを加えて、雑多なイメージを画面に集めてくるコンバイン・ペインティングを、ジョーンズは国旗や標的などを画面にクローズアップすることで、反芸術の新しい表現スタイルをうちだした。これらの創作活動を、芸術に対する挑戦的な姿勢とみなし、「ダダの再来」という意味でジャーナリストが名付けたものが「ネオ・ダダ」である。日本も1960年の読売アンデパンダン展に、ネオ・ダダ・オルガナイザーズというグループが出品するなど、影響を受けている。ネオ・ダダは抽象表現主義につづき、後のポップ・アートの出現をまつことになる。 |
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