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かんばら たい 神原泰
1898年東京都に生まれる。中央大学を卒業後、フランス語、ラテン語、イタリア語を学ぶ。はじめ詩人として出発するがイタリアの未来派運動に興味をもち、その研究に没頭するかたわら自らも絵画の制作をはじめる。1917年第4回二科展に〈麗はしき市街、おゝ複雑よ いらだちよ〉を発表する。この作品は日本で展覧会に発表された最初の抽象画ともいわれる。1920年初めての個展に際し『第1回神原泰宣言書』を発表、当時の既成画壇とその様式を否定する。1922年古賀春江、矢部友衛、中川紀元らと前衛グループ「アクション」を結成、24年三科造型美術協会の結成に参加、25年同協会の解散後岡本唐貴、矢部友衛らと「造型」を結成し『造型宣言』を発表する。大正期の前衛芸術運動のリーダーの一人として活躍するが、1927年「造型」の改組にあたり退会し、絵画の制作を中断、詩作、評論、シナリオ、演出などで活躍する。近年になって絵画の制作を再開する。(「ピカソと日本」図録 1990年)
カテゴリー:作家
川端玉章とは?【 作家名 】 京都に蒔絵師の子として生まれる。幼名龍之助。晩年は璋翁と号した。はじめ、父から蒔絵の手ほどきを受けるが、中島来章に師事し円山派を学んだ。慶応2年(1866)江戸に出て、覗眼鏡の興行などを経た後、高橋由一、五姓田義松とともにワーグマンから洋画を学ぶ。そして、油絵具で屏風を描いたこともあったという。明治10年(1877)第一回内国勧業博覧会以降、受賞を重ね、第一回、第二回内国絵画共進会では、受賞作がフェノロサから評価を受ける。明治21年(1888)から、円山派を代表する画家として、東京美術学校で後進の指導にあたった。シカゴ万国博覧会に出品。日本青年絵画協会の結成に尽力した他、川端画学校校長、帝室技芸員、文展での審査員などを歴任した。(「近代日本画への道程 「日本画」の19世紀」図録 1997年) |
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