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おかもと とうき 岡本唐貴
1903年岡山県に生まれる。本名は登喜男。1924年東京美術学校彫刻科塑造部を中退する。1923年第10回二科展に〈静物〉を出品、翌24年前衛グループ「アクション」に参加する。同年三科造型美術協会の結成に参加し、25年同会が解散すると矢部友衛、神原泰、中川紀元らと「造型」を結成する。1929年日本プロレタリア美術家連盟(PPのちにJAP)の結成に参加し、中央委員に就任する。同年第2回プロレタリア美術大展覧会に〈争議団の工場襲撃〉を出品、また1933年小川多喜二のデスマスク〈小林多喜二死面〉を描く。1934年JAPが弾圧をうけて解散すると、矢部友衛、寺島貞志らと研究グループ「仲よし会」を組織し活動をつづける。戦後は1946年旧JAPのメンバーと現実会を結成、日本美術会の創立にも参加し、日本美術会主催日本アンデパンダン展に出品する。(「ピカソと日本」図録 1990年)
カテゴリー:作家
構成主義とは?【 美術用語 】 ロシア革命前から1920年代にかけてソ連で展開された芸術運動。ウラジーミル・タトリンが1913年に始めた鉄板や木片によるレリーフを「構成」と呼んだのを発端とする。現実の素材による非再現的構成という造形理念は、ロドチェンコなど多くの共鳴者を得て、構成主義という運動に発展し、モスクワの前衛美術界を、マレーヴィチの提唱したシュプレマティズム(絶対主義)と二分した。革命後は、革命政府の美術政策の推進勢力となり、絵画、彫刻をブルジョワ芸術として否定するとともに、鉄・ガラスなどの工業生産物の使用と社会的効用性を主張し、建築・デザイン・舞台美術などの分野にも拡がり、1920年には造形芸術の各分野をほとんど支配した。運動としては1919年頃から効用派と純粋造形派とに分裂し、純粋造形派のペヴスナー、ガボらは運動を離れ、効用派もその後産業との一体化を推進したが1930年代に政府より批判され終結したが、国外の抽象芸術運動に与えた影響は大きい。タトリンの「第3インターナショナル記念塔(模型)」はその代表的作品。 |
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