![]() |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| データベースを使った楽しいサービスです。文中のキーワードをクリックすると、解説文があらわれ、同時に検索結果が表示されます。ぐるぐるキーワードをたどって遊んでみてください。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
やべ ともえ 矢部友衛
1892年新潟県に生まれる。1918年東京美術学校日本画科を卒業しアメリカへ渡航、翌年フランスに渡る。はじめアカデミー・ランソンでモーリス・ドニに学ぶが、その後キュビスムなど当時の新傾向の美術を研究する。1922年帰国し、同年の第9回二科展にキュビスム風の作品を発表するとともに神原泰、中川紀元、古賀春江らと「アクション」を結成する。1924年三科造型美術協会の創立に参加、翌年同会が解散すると岡本唐貴らと「造型」を結成する。1926年から27年にかけてモスクワに渡り、プロレタリア美術を学ぶとともに朝日新聞社主催で開催した新ロシア美術展の実現に尽力する。1929年日本プロレタリア美術家同盟(PPのちにJAP)の創立に参加し委員長に就任、社会主義レアリズムをとなえる。1934年JAPが弾圧をうけて解散すると研究グループ「仲よし会」を組織する。戦後は1946年日本美術会の創立に参加し、旧JAPのメンバーと現実会を結成する。(「ピカソと日本」図録 1990年)
カテゴリー:作家
ラムとは?【 作家名 】 アイオワ州ティプトン生まれのラムは、ノードフェルト同様、ジャポニスムの真っ只中、シカゴのアート・インスティテュート・アートスクールで学んだ。初めて実験的な木版画を制作したのは、日本への新婚旅行で木版の道具を手に入れた後の1905年頃である。1907年に再び日本を訪れたラムは、今度は彫師の伊上凡骨(1875−1933)の下で3カ月間、伝統的な木版画の工程を学び、その後3年間はその手法を生かしてアメリカで制作した。1911年から1912年にかけて再来日した折には、東京で彫師と摺師を見つけ、集中的に自分の作品の制作に励んだ。ラムの木版にかける熱意に打たれた師の伊上凡骨は、「おそらく日本の多色摺木版芸術は外国人たちに乗っ取られてしまうだろう!」と、日本人が木版を低級な複製技法として蔑んでいる事実を嘆いている(「木版画の真価」『早稲田文学』7、1907年5月)。ラムが日本で活動した時期は、ちょうど創作版画運動の初期と重なったが、彼女の独創的な木版作品は日本の同時代の作家に多大な影響を与え、日本における木版の見直しの端緒となった。(M.Y.)(「世紀末から 西洋の中の日本「ジャポニスム展」図録) |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||