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まえた かんじ 前田寛治
1896年鳥取県に生まれる。1930年没する。1915年に上京、葵橋洋画研究所に学び、16年東京美術学校西洋画科に入学、21年に卒業する。在学中は藤島武二に師事し、また、精神的には内村鑑三に傾倒した。1921年、二科展に初入選し、翌22年渡仏、アカデミー・ド・ラ・グラン・ショーミエールに学ぶ。新古典主義、写実主義を研究し、アングル、クールベに魅かれる。また、マネ、セザンヌにも刺激を受けた。さらに、唯物史観の影響を受け、〈二人の労働者〉など、社会的な主題を扱った作品も描く。1925年に帰国し、第6回帝展では〈J・C嬢〉で特選となる。翌1926年には里見勝蔵らと一九三〇年協会を結成する。1928年渡仏期の成果を基に、前田写実研究所を開設し、後進の指導にあたる一方で造型理論の研究をすすめ、古典的な構図とフォーヴィスム的な筆致を持つ作品を制作する。1929年の第10回帝展で、帝国美術院賞を受賞した。(「ピカソと日本」図録 1990年、一部加筆有)
カテゴリー:作家
小川芋銭とは?【 作家名 】 1868年江戸赤坂溜池の牛久藩邸に、留守居役小川伝右衛門の長男として生まれる。幼名不動太郎、のち茂吉と改める。はじめ油彩画を本多錦吉郎に学ぶ。1888年(明治21)「朝野新聞」の客員となり、同紙に帝国議会開設のスケッチや漫画を発表した。この時から芋銭の号を用いはじめる。1893年廃藩置県で牛久に帰農していた一家のもとに帰り、農業に従事しながら制作を行った。「茨城日報」「いはらき新聞」に投稿、1911年小杉未醒と漫画展を開催した。1915年(大正4)平福百穂、川端龍子、森田恒友らと日本画研究団体、珊湖会を結成、1917年には日本美術院の同人となる。以後院展を中心に、沼畔や田園に題材を取った作品を発表した。明治後期に幸徳秋水などと交流し、平民主義の影響を受ける一方、老荘の思想に通じ、書や俳諧もよくした。(「大正の新しき波 日本画1910−20年代」図録 1991年) |
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