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いはら うさぶろう 伊原宇三郎
1894年徳島県に生まれる。1976年没する。大阪の今宮中学校で折口信夫に学び影響を受けた。東京美術学校西洋画科に入学し藤島武二に学ぶ。在学中の1920年、第2回帝展に初入選、翌年卒業する。1925年に渡仏、各地を旅行し、またサロン・ドトンヌに出品、入選する。1929年帰国し、第10回帝展で特選となり、翌年の第11回展でも特選となる。1932年東京美術学校助教授に就任する。1934年第15回帝展で審査員に推されたが、翌年第2部会結成に加わる。戦後は1949年日本美術家連盟創立に参加し、以後委員長を10年間勤める。晩年は同連盟の理事や、国際造形芸術連盟日本国内委員長、日展評議員などの他、数多くの要職を歴任しながら制作にも励んだ。1960年にはフランス政府から芸術文化勲章を贈られる。新古典主義風の、重量感のある裸婦像など、人物画を数多く制作した。(「東四国阿波讃岐風景画展」図録 1993年)
カテゴリー:作家
ホフマンとは?【 作家名 】 1870年、モラヴィアのブルトニッツェで生まれる。 オーストリアの建築家。師オットー・ヴァグナーの合理主義的な造形原理を長く継承したが、ホフマン自身は、禁欲的なロースのスタイルとは対照的な優雅さや繊細さを好む傾向があった。手工芸に関心を示し、1899年以降、ウィーン工芸学校で教鞭をとり、またウィーン工房の創立者の一人に名を連ねた(1903)。1897年にはオルブリヒらと「ウィーン・ゼツェッション」を組織。この頃にはマッキントッシュらのグラスゴー派から影響を受け、またアール・ヌーヴォーの造形原理をやや遅れてオーストリアに導入するのに努力した。1905年にゼツェッションが分裂したときにはクリムトのグループに加わった。代表作は、陸屋根の厳格な形態を見せるプルケルスドルフ・サナトリウム(1903)、ブリュッセルのストックレー邸(1905)。1914年にはドイツ工作連盟のケルン展にオースリトア館を出展、戦後の1920年には、ウィーン市建築官となる。ル・コルビュジエやバウハウスの新様式が力を得はじめるにつれ、ホフマンの個性的な作品はやや時代遅れとみなされるにいたり、彼自身も新傾向の純粋主義的な禁欲的なスタイルに歩調を合わせた。1956年、ウィーンで歿。 |
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