データベースを使った楽しいサービスです。文中のキーワードをクリックすると、解説文があらわれ、同時に検索結果が表示されます。ぐるぐるキーワードをたどって遊んでみてください。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
さとう けい 佐藤敬
1906年大分県に生まれる。1926年東京美術学校西洋画科に入学、29年第10回帝展に初入選する。1930年フランスに留学、美術学校は翌年不在のまま卒業する。フランス滞在中、サロン・ドトンヌに出品するかたわら帝展にも出品を続け、1932年第13回展で特選を受賞する。1934年帰国し、翌35年の帝展改組に際し第二部会の結成に参加、その1回展で文化賞を受賞、会員に推挙される。翌年第二部会の官展復帰に反対して小磯良平、猪態玄一郎らと新制作派協会を結成、以降新制作展に出品する。戦前はフランス滞在を通じてマティス・ピカソの洗礼をうけるが、戦後になると描写に主観性を強め、鮮明な色面で画面を分割し、意図的な構成を前面に押し出す。1952年ふたたびフランスに渡ってからは次第にマティエールへの関心をあらわにし、まもなく抽象絵画に移行する。美術団体連合展、日本国際美術展、ヴェネツィア・ビエンナーレなどにも出品する。(「ピカソと日本」図録 1990年)
カテゴリー:作家
いまクリックまたは、検索したキーワードの解説
ラスケとは?【 作家名 】 1892年から1898年、ウィーン工科大学でカール・キューニッヒに師事。1897年、イタリアに研究旅行。1899年から1901年、ウィーン美術アカデミーでオットー・ヴァーグナーに師事。建築ディレクター、ヘルマン・ミュラーのもとで実践を積む。最初は父親のアトリエで、後に独立して、賃貸住宅やウィーンの邸宅、とりわけ、ケルンテン、ドレスデン、メーレンのエンゲル薬局、などの建築に従事。キャバレー「ナッハトリヒト(常夜灯)」の内装と装飾。1904年、はじめてエッチングを試みる。1905年、ユングブント展に造形作家として参加、その際、室内デザインにも従事する。1907年、ハーゲンブントのメンバーになる。多くの展覧会設備のデザインを請負う。1910年、「ノアの箱舟」、1913年、「パラダイス」、「小鳥のお説教」。1911年から1918年、頻繁に旅行をする。第一次世界大戦の際には、戦争画家として様々な戦線に赴く。1919年、「ノアの箱舟」のフリーズ(壁面上部の帯状装飾)、エッチング「ファースト・インプレッション」。1920年、初めて劇場の演出を試みる。1924年、ウィーン分離派メンバー。1928年、ウィーン紙大賞を受賞。キュンストラーハウスのメンバーとなる。ウィーン市から1931年、1948年に受賞。トーマス・マン、ヨハン・ネポムック・ネストロイ、フェルディナンド・ライムンド、アルトゥール・シュニッツラーらの作品のリトグラフと本の挿絵を制作。 画面右にこのキーワードの再検索結果が表示されています。そちらもご覧ください。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||