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悪の泉−『エスタンプ・オリジナル』誌第6号より



『悪の華』のために版刻された14図



アクパン



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朝倉文夫



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アサンブラージュ



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 作家(1701)

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あんどり

フェルディナント・アンドリ

アンドリは、ウィーン美術アカデミーでユリウス・ヴィクトール・ベルガーと、エドゥアルド・パイトナー・フォン・リヒテンフェルスに、1892年にはカールスルーエのアカデミーでカスパー・リッターとクラウスマイヤーに師事する。1898年から1905年までは、多くの展覧会に参加し、1899年から1909年まではウィーン分離派の会員であった。1901年には、第10回分離派展のポスター、1902年の第14回展(ベートーヴェン/クリンガー展)では絵画「男の勇気と戦いの喜び」、1903年までは「ヴェル・サクルム(1900年、第19号のカバーなど)」の挿画やイラスト。1904年には、コーピッシュの詩の為のグラフィック作品(ゲルラッハス・ユーゲントブッヒャライ、第13巻)、ベルリンでのウィーン展の際に展示された玩具や工芸品の制作。同年、米国セントルイスでの万国博覧会、オーストリア館の展示コミッショナーを務める。しかしながら、ウィーン分離派が企画した(万国博での)展覧会は開催されず、このプロジェクトのために衝突が起きることとなり、カール・モルをめぐっての争いで、クリムト・グループが分離派を脱退することになる。1905年分離派会長になり、オッタクリークのハイリッヒ・ガイスト教会祭壇壁画のための彫刻とモザイクをデザイン、1909年、ツァッヒェルハウスの聖ミヒャエル像制作。1914年から1918年までは、戦争画家。1920年から1939年までは、ウィーン美術アカデミー教授、退官後も名誉教授として1945年まで教える。1950年には、ザンクト・ペルテン市が彼の作品を引き取るかわりに終身年金を与え、フェルディナンド・アンドリ美術館を設立している。同美術館には彼の殆んどの作品が保管されている。


カテゴリー:作家
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ゲラールとは?【 作家名 】

画家、版画家、挿絵画家、装飾デザイナーとして活躍したゲラールは、1860年代、マネフェリックス・ビュオフィリップス・ビュルティらの親しい友人であった。初期にはエッチングによる複製版画で生計を立て、装飾デザイナー、あるいは扇製作者としても働いた。1883年には、ルイ・ゴンスに協力して、『日本美術』に日本の美術品を描いた200点余りものエッチングの挿絵を入れている。オーギュスト・ルペールと付き合うようになり、おそらくエミール・ベルナールにも刺激されたのであろう。1880年には木版画を手がけ、1880年代後半、多色刷エッチングの技法の発展に尽力した。フィリップ・ビュルティとフェリックス・ブラックモンと共にデュラン=リュエル画廊で画家=版画家年次展覧会を設立し、1890年、フランス画家=版画協会をフェリックス・ブラックモンと共に創設した。1897年、ロジェ・マルクスゲラールのことを「パリの日本人」と評している。(P.F.)(「世紀末から 西洋の中の日本「ジャポニスム展」図録)

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けんさくけっか

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ゲラール

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  カフェ・コンセールにて

  アンリ=シャルル・ゲラール

  出漁:月光の効果

  ジャポニスム

  扇面画(男)

  扇面画(日本の面)

  扉絵と書票−『ジャポニスム:10のエッチング』より

  フェリックス・ブラックモン

  病みあがり:ルペール夫人

  オーギュスト=ルイ・ルペール


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徳島県立近代美術館2006